第8章 お気に入り
強烈な威圧感が、ふっと場を覆った。
柊木禅司が、いつの間にか近くまで来ていたのだ。
背筋の伸びた長身。角ばった輪郭の整った顔に浮かぶのは、ひたすら冷徹な気配。
七瀬崚介は彼を認めた瞬間、顔色を変えた。目に見えない圧に押し潰されそうになり、額に汗が滲む。月岡古雅の手を掴もうとしていた指も、慌てて引っ込めた。
だが、その沈黙を観客の歓声が破る。
「柊木社長、本当に七瀬崚介のところ行ったぞ! 七瀬様すげえ! 柊木社長に相手してもらえるなら、さっきの醜態なんて帳消しだろ!」
「七瀬様とそんな繋がりがあるなら、月岡グループの契約なんてどうでもいいじゃん!」
熱狂の波が押し寄せる中、原田紀奈が真っ先に手を差し出し、恥じらうふりで柊木禅司を見上げた。甘ったるい声を作る。
「柊木社長、はじめまして。原田紀奈と申します。今日お会いできるなんて、すごいご縁ですね。よろしければ、今度お食事でも――」
せっかく掴んだ機会だ。逃す気などさらさらない。矜持も体裁も、この際どうでもよかった。
それを見て七瀬崚介も我に返り、慌てて手を拭いながら差し出す。胸を張ったつもりの笑みは、必死に媚びを隠そうとして失敗した形だ。
「柊木社長、こんにちは。本日はお忙しいところ、私の試合に足を運んでいただき――もしお時間があれば、ぜひ――」
言い切る前に、柊木禅司の視線が二人を一撫でし、氷の刃みたいな声が落ちた。
「うるさい」
宙に差し出した手が、そのまま固まる。二人の頬がみるみる赤くなり、気まずさで息もできない。
目配せして何か言葉を探そうとする間もなく、柊木禅司は二人を無視して通り過ぎ、月岡古雅の前に立った。
「お前に用がある」
その一言で、会場が再び凍りつく。
次の瞬間、さっきよりも狂ったような悲鳴とざわめきが弾けた。
「はあ!? 柊木社長が来たの、月岡古雅目当て! なんで!」
「七瀬崚介、なに偉そうにしてたんだよ。柊木禅司に取り入ったのかと思ったわ!」
「さっきは笑えなかったけど、今はさすがに笑う」
耳を刺す嘲笑の中、七瀬崚介は地面に潜りたくなる。
なのに原田紀奈は空気も読めず、目を見開いて叫んだ。
「月岡古雅!? あんた、どうして柊木社長と知り合いなのよ?」
言いながら七瀬崚介を横目で見て、露骨に顔をしかめる。
「てっきり、あなたに会いに来たのかと思ったのに」
それで七瀬崚介の糸が切れた。堪えも余裕も、ついでに理性も消し飛ぶ。
「お前のせいだろ!」
目が血走り、歯を食いしばって原田紀奈を指差す。
「お前が電話なんか――!」
……勘違いさせやがって。
最後まで言えなかった。今日の恥は、もう取り返しがつかない。七瀬崚介は真っ黒な顔で踵を返し、逃げるように去っていった。
原田紀奈は足がガクンと崩れ、その場に取り残される。泣き出しそうな顔で、しばらく固まった。
ようやく我に返り、追いかけようとしたが、隣に立つ柊木禅司の存在に気づいた途端、涙がぼろぼろこぼれ落ちた。
「わたし、ただ勘違いしただけなのに……どうしてあんなに怒鳴るの……?」
美人が泣けば普通は誰かが寄ってくる。
だが、誰も見向きもしない。
柊木禅司に至っては、一度も彼女を見なかった。視線は最初から最後まで、月岡古雅だけに向けられている。
「前の件。説明してもらう」
低く、それでいてはっきり通る声。表情は乏しいのに、どこか薄い笑みすら滲んでいる。
月岡古雅が眉を上げる。
「前のって、ホテルのあれ? わざわざお礼言いに来たの?」
「わざわざ」を、月岡古雅はやけに強く噛んだ。
柊木禅司が口元をわずかに吊り上げる。
「何の礼だ」
月岡古雅はくるりと背を向け、そのまま歩き出した。風に乗って届いたのは、短い言葉だけ。
「跡継ぎ残してやった礼」
柊木禅司は、呆れて笑ったのか、怒って笑ったのか。どちらともつかない息を洩らし、歩幅を合わせて追いかける。
考えてやった動きではなかった。
月岡古雅がふいに振り返り、意外そうに目を瞬かせる。
「……本当に、わたしに用で来たの?」
その瞬間になって、柊木禅司は自分が少し不用意だったと気づく。これまで感じたことのない、妙な気まずさが胸の奥でむず痒く膨らんだ。
柊木禅司はその感覚を押し潰し、潔く頷く。
月岡古雅は面白がるように笑った。
冷たい仮面みたいな男が、ほんの一瞬でも戸惑うなんて。
二人は次第に遠ざかっていく。
背後では原田紀奈が立ち尽くしたまま、今にも崩れ落ちそうな像のように固まっていた。
……嫌だ。
どうして柊木禅司みたいな男が、わざわざ月岡古雅を探しに来るの。
二人は、いったいどんな関係?
月岡古雅がたまたま社長の機嫌が良い時に、少し相手してもらえただけよ。だって柊木社長は気分屋で有名だし――
思考は、次の光景でぶつ切りになった。
柊木禅司が月岡古雅のために車のドアを開け、そのまま二人で車を走らせていったのだ。
人だかりが、また沸騰する。
原田紀奈の目に火がついた。
どうして、いいものは全部――月岡古雅のところに行くのよ。
……今度こそ、負けない。
——
エヴィアン別荘地の外。
黒い高級車が、静かに停車した。
月岡古雅はシートベルトを外し、隣の男を横目で見て唇を吊り上げる。
「意外ね。柊木社長が、わたしを家まで送るほどお暇だなんて」
この男が全身から冷気を漂わせていなければ、優しい紳士にでも見えたかもしれないのに。
柊木禅司が口を開こうとした、その時。
前方から一人の影が近づいてきた。
「柊木社長、奇遇ですね。またお会いしました。ほんとにご縁がありますね。あ、わたし月岡古雅の従妹なんです。よかったら、今度ご一緒にお食事でも――」
原田紀奈だった。
ここに現れること自体、月岡古雅には想定内だ。原田紀奈の性格なら、一度会った柊木禅司に食らいつかないはずがない。
媚びる声、作った笑顔。見ているだけで痛々しい。
まして柊木禅司にとっては――聞いた瞬間から「害」だ。
声が耳に入っただけで、露骨に不快そうな気配が濃くなる。
次の瞬間、彼は躊躇なくアクセルを踏んだ。
エンジンが唸り、車は真っ直ぐ原田紀奈へ突っ込む。
「きゃあっ!」
風がぎゅんっと頬を切り、原田紀奈の顔から血の気が引く。
彼女は転げるように脇へ逃げ、木にしがみついてでも登りたい勢いで必死に避けた。それでも車が迫るのが見え、今度は小道へとよろめきながら駆け込むしかない。
幸い、柊木禅司は追ってこなかった。
原田紀奈はその場にへたり込み、はあ、はあ、と息を貪る。涙が目の縁で震えた。
……狂ってる。
柊木禅司は、ただの狂人だ。
月岡古雅がこんな男と関わりたいなら勝手に関わればいい。いつか発作みたいにまたおかしくなって――あの女ごと轢き潰してくれたら、最高なのに。
