第9章 水に突き落とす
車内。
さっきの一幕は、月岡古雅の目に余すところなく焼きついていた。
柊木禅司は、やはり狂っている。
そして――そういう狂人を、月岡古雅は嫌いじゃない。
前世の自分は、いい子ぶって綺麗事ばかりで、狂いきれなかった。そのせいで、全部失った。
一度死んだ今の彼女が大事にするものは、家族だけだ。
自分の命ですら、例外じゃない。
きっと柊木禅司も、同じ種類の人間だ。
月岡古雅は、隣の男へ視線を投げた。
今度は、じっと。丁寧に。
彫りの深い顔立ち。過不足のない黄金比。生まれつきの高貴さが、息をするだけで滲む。
こんな手合いを最後に見たのは、古代ギリシャ神話の挿絵の中だった気がする。
月岡古雅はシートベルトを外す手を一瞬止め、それでも口元を吊り上げて茶化した。
「柊木社長。女に興味がないって噂、今日で撤回ですね」
柊木禅司はハンドルに指先で、トン、トンと軽く二度。
そんな噂は、腐るほど耳にしてきた。
だがこの女の口から出ると、なぜか目の奥に笑みが滲む。
「月岡さんは、噂を鵜呑みにするタイプには見えませんが」
「さあ、どうでしょうね」
月岡古雅はドアを押し開け、振り返って唇を弧にする。
「少なくとも、手加減しないって噂は――今日はこの目で確認しました」
そう言い残し、月岡古雅は去った。
柊木禅司は車内に残ったまま、細いのに芯のある背中が遠ざかり、やがて消えるのを見送る。口元の弧が、じわりと深くなる。
肝が据わっている。いや、怖いほどだ。
さっき、自分の車に乗せられた人間なら、普通は震える。
だが彼女は違った。
あの瞬間、柊木禅司が彼女の瞳に見たのは、恐怖じゃない。
極上の愉悦だけだった。
――
一方。
月岡古雅が門をくぐって家に戻ると、外庭で原田紀奈が行ったり来たりしていた。
彼女は月岡古雅を見つけるなり駆け寄ってきて、顔いっぱいに作り笑いを貼りつける。
「お姉ちゃん、やっと帰ってきた。忠告なんだけど……柊木禅司とはあんまり関わらないほうがいいよ。あの人、まともじゃないから」
月岡古雅は足を止めない。視線すらくれず、そのまま横をすり抜けようとする。
だが原田紀奈が腕を伸ばして行く手を塞いだ。
「お姉ちゃん。二人きりで話したいの。数分でいいから、お願い」
月岡古雅の瞳に、冷たいものが走る。
二人きり?
何を言うつもりだ。ろくでもないに決まってる。
けれど――次に何が飛び出すか。むしろ楽しみでもあった。
月岡古雅は悟られないようスマホを取り出し、録音をそっと開始する。それから低く言った。
「言いたいことがあるなら言えば。回りくどいの、嫌いなの」
原田紀奈は裏庭を指し、困った顔を作る。
「従兄も今日は帰ってきてて……うちの両親も来てるし、家の中は人が多いの。庭のほうが静かで話しやすいよ」
そう言うと、原田紀奈は月岡古雅の腕を取って裏庭へ引っ張った。
月岡古雅は拒まない。
五分後。
裏庭の噴水のそば。
原田紀奈は池の柵に手をつき、さっきまでの「可哀想な私」を脱ぎ捨てた。顔に浮かんだのは、露骨な怨み。
「お姉ちゃん、最近なんで私にそんな冷たいの? この前だって、私にビンタしたくせに謝りもしない。今日もそう。門のところで柊木社長に轢かれそうになったのに、横で見てるだけで何も言わなかったよね。どういうつもり?」
月岡古雅は鼻で笑い、腕を組んだ。
「自分から恥さらしに突っ込んだだけでしょ。私に関係ある? 確かに見てるだけじゃダメだったわね。アクセル踏んでくれって頼めばよかった。轢き殺してもらえば害虫駆除になったのに」
原田紀奈の目に一瞬怒りが灯り、すぐに粘ついた毒へ変わる。
一歩近づき、月岡古雅を睨みつけて歯を噛みしめた。
「お姉ちゃん。いくらなんでも姉妹でしょ。やりすぎたら、バチが当たるよ」
月岡古雅は笑いを堪えきれそうになかった。
眉を上げ、からかうように言う。
「それで? 何がしたいの」
「前のことはね、ちゃんと謝ってくれて、少しだけ誠意を見せてくれるなら……私も水に流してあげてもいいよ」
「誠意?」
月岡古雅は大きな冗談を聞いたみたいに、口角を上げる。
「原田紀奈。自分で言ってて笑わない? 金がほしいなら金って言えばいいのに、よくもまあ『誠意』なんて言えるわね」
原田紀奈は顔を歪めた。殴り返したくてたまらないのが見え透いている。だが、できない。
その代わり、背後の池を指して脅しを作った。
「月岡古雅! ちゃんとした説明もなしで済ませるなら、私、今ここで飛び込むから! そしたらパパとママと……お兄さんにも言う。お姉ちゃんに突き落とされたって!」
殺しにいって自分も傷つく手だ。それでも月岡古雅から何かを奪い取れないなら、気が済まない。
そしてこの女が使える手は、結局いつもそれだけ。
昔の月岡古雅は、それに弱かった。
けれど――もう昔じゃない。
月岡古雅は、ただ情けなくなった。
前世でこんな愚図に壊された自分が、恥ずかしくて仕方ない。
結局これか。道徳で縛って、脅して、でっち上げる。
月岡古雅は首を傾げ、わざとらしく不思議そうに言った。
「それ、私の兄よね。なんで兄があんたの話を信じると思うの?」
「私のほうが可哀想に見えるから」
原田紀奈は月岡家の人間を知り尽くしているつもりで、薄く笑った。
「お兄さんって、騎士道精神の塊じゃない? 心の中で疑ってても、女の子が泣かされるのを見過ごせない人。だから結局、私に『補償』するの。そういう人だもん」
原田紀奈にとって、これが最も賢い策だった。
どう転んでも、補償は手に入る。
苦しむかどうかが違うだけ。
月岡古雅の意識は、前世へ引き戻される。
兄の月岡星也は、小さい頃から彼女を守ってくれた。けれど同時に、女の子が虐げられるのも見過ごせない人だった。
原田紀奈は「可哀想な私」を武器にして、兄からいくらでも金を引き出した。
騎士道精神なんて格好のいい言葉で飾っても、根っこはただの優しさだ。
そして原田紀奈が許されないのは、その優しさを利用したこと。
そう思った瞬間、胸の奥がすうっと冷えた。
だが原田紀奈は知らない。
月岡古雅が黙ったのを見て、勝った気になった。
笑みがますます厚かましくなる。
「お姉ちゃん、私たち、そんなにこじらせなくてもいいじゃん。本来この件はお姉ちゃんが悪いんだし、ちょっと頭下げて――」
その「得したら急にいい子」みたいな顔が、限界だった。
原田紀奈が次の言葉を吐く前に、月岡古雅は唐突に腕を伸ばす。襟首を鷲掴み。
そして――噴水の池へ、叩きつけるように押し込んだ。
「きゃっ! 月岡古雅、あんた狂って――!」
原田紀奈の悲鳴が裏庭に弾ける。
身体が制御できないまま沈み、冷たい水が一気に胸元まで飲み込んだ。ごぼっ、と水を吸い、激しく咳き込む。
必死に這い上がろうとするが、月岡古雅の手が肩を押さえつけ、びくともしない。
濁った水の中で髪がほどけ、顔に貼りつく。濡れ鼠――いや、落ち武者みたいだった。
緑のワンピースが池に広がり、取れない藻のように揺れる。
ばちゃばちゃと水を叩きながら、震える声で叫ぶ。だが口に入るのは水ばかりだ。
「た、助けて……! やめて! 死ぬ、溺れる……っ!」
月岡古雅は無表情で見下ろした。
その台詞は、聞き覚えがある。
前世。自分が原田紀奈の手に落ちたとき、何度も何度も、同じ言葉を言った。
平手打ち。水責め。電気――どれだけされたか、数えきれない。
それでも原田紀奈はやめなかった。
むしろ髪を掴み、惨めな姿を眺めて笑った。
「月岡家のお嬢様って、痛いと泣くんだね。爪を剥がされたら、体裁も忘れて喚くんだ」
だから今さら、月岡古雅が手を緩める理由はない。
彼女は裁定者みたいに感情を消し、ただ静かに原田紀奈のもがきを眺めた。
力が尽きかけたところで、月岡古雅は髪を掴み、ぐいっと引き上げる。顔が水面から出て、原田紀奈がぜえぜえと空気を貪る。
――そして次の瞬間、容赦なく押し戻した。
一度、二度、三度。
原田紀奈の抵抗はどんどん弱まり、目の恐怖が、やがて絶望に変わる。
「ごめんなさい……私が悪かった……お姉ちゃん、お願い、許して……っ」
助けを乞う声に、意味はない。
月岡古雅は、利子を少し回収しているだけだ。
原田紀奈が完全に力を失い、泥の塊みたいに月岡古雅の手にぶら下がったところで、ようやく岸へ引きずり上げた。
原田紀奈は地面にへたり込み、全身びしょ濡れ。唇は紫で、歯ががちがちと鳴る。
やがて虚ろだった瞳に色が戻る。恐怖が引き、代わりに湧き上がるのは怒りと怨恨。
原田紀奈は身体を引きずるように起き上がり、ありったけの力でリビングへ向かって駆けだした。
「助けて! 月岡古雅が私を殺そうとしてる! 誰か、助けて!」
