第3章 薬を盛られた

「……ずいぶん早いお帰りね」

相沢千夏が淡々と言った。まるで、他人に向ける声。

その冷たさが、氷川隼人の胸を逆撫でした。離婚の話だの、二人で国外へだの――耳にした瞬間、背中を刺されるような裏切りが込み上げる。

「お前たち、何の話をしてる」

千夏と風見礼司が同時に振り返る。氷川の顔色は沈み、冷気をまとっていた。

彼は大股で近づき、千夏を一瞥したあと、風見を見下ろす。

「誰の許可で俺の家に入った」

風見礼司は立ち上がり、礼儀正しく頭を下げた。

「氷川さん。今夜の件を聞きまして、千夏が心配で……様子を見に来ただけです」

「様子を見に来た?」

氷川は鼻で笑った。薬の熱で頭が煮え、視界の奥がじりじり燃える。

「お前にその資格があるのか。彼女は俺の妻だ」

「でも、もうすぐ離婚なさるのでしょう」

風見は退かなかった。

「それに、この二年、あなたが千夏にどう接してきたか――ご自分がいちばん分かっているはずです」

「千夏、千夏」

呼び方だけで胸がむかつく。

氷川の顔がさらに険しくなる。千夏へ向き直り、低く命じた。

「追い出せ」

相沢千夏の瞳には、感情らしいものが何ひとつ浮かんでいない。

「氷川隼人。彼は私の友だちよ。あなたに追い出す資格はない」

氷川は怒りすぎて、笑ってしまった。

「俺の家で、俺に資格がない?」

「あなたの家?」

千夏は冷たく笑う。

「じゃあ私は? この家で私は何なの?」

二人が睨み合い、空気がきしむ。火花が散りそうな沈黙。

風見が察して、間に入った。

「千夏、今日は帰る。明日また」

千夏はうなずき、立ち上がりかける。

「うん、送る」

「送る必要があるか」

氷川が前に出て、千夏の肩を押さえつけた。声は氷のように冷たい。

「子どもじゃない。自分で帰れる」

風見は眉をひそめ、千夏を一度だけ深く見つめると、何も言わずに部屋を出ていった。

千夏は唇を噛む。

押さえつけてくる手が、異様に熱い。焼けるみたいに。

おかしい。

身をよじって逃れようとした瞬間、力がさらに強くなった。

「氷川隼人、どうしたの」

「相沢千夏」

見下ろす声が、薬のせいで掠れている。

「そんなに飢えてるのか」

嫉妬と怒りが油を注ぎ、薬効が一気に暴れ出す。全身が燃える。理性が追いつかない。

千夏は息を呑み、警戒して彼を見る。氷川の頬は赤く、目の奥には制御の外れた欲がにじんでいた。

「……薬を盛られたのね」

「お前以外に誰が、毎日俺に薬を盛りたがる?」

氷川は嘲るように吐き捨て、理性の糸が切れた。

どさっ。

千夏をベッドへ押し倒す。大きな体が覆いかぶさり、身動きが取れない。

「っ……!」

「二年も触れなかった。なのに離婚が見えたら、もう次の男か?」

寝間着が乱暴に裂ける。白い肌が露わになり、氷川の呼吸が荒くなる。熱が下腹へ集まり、手の動きが速まった。

千夏は必死に抵抗し、額に冷汗がにじむ。唇が青白い。全身で押し返し、怒鳴った。

「氷川隼人、目を覚まして! 私は小林華絵じゃない! 痛い……!」

爪が彼の腕をえぐり、赤い筋がいくつも走る。

薬で痛みは鈍いはずなのに、その抵抗が一瞬だけ彼の頭を冷やした。だが刺激は足りない。

氷川がわずかに怯んだ、その隙。

千夏の視線がベッドサイドのガラスのルームフレグランスを捉えた。手を伸ばし、掴む。

そして――迷いなく、額へ叩きつけた。

パァンッ!

耳元で炸裂するような乾いた音。

激痛が氷川の額を貫き、温かな液体がこめかみを伝って流れ落ちた。数秒、呆然。だが熱と酩酊は、痛みで一気に薄れていく。

香りがぶわっと広がる。香液がベッドシーツと肌に飛び散り、甘く濃くなった。

鎮静と安眠を促す香り。

氷川の荒い呼吸が少しずつ落ち着き、濁った脳が回り始める。

視界が戻り、深い青の瞳に、珍しい動揺が走った。

――なぜ、俺はこんなにも怒った?

この喪失感と、悔しさは、どこから来た?

血が香液と混ざって滴り落ちるのを見て、千夏の背筋がひやりとする。

「わ、私……」

睫毛が震え、遅れて恐怖が押し寄せた。

「ごめんなさい。わざとじゃ……」

氷川は眉をひそめ、危険な目でしばらく見下ろす。やがて荒い息のまま体を退け、何も言わずに部屋を出た。

ばたん、と乱暴に浴室のドアが開く。

千夏はようやく息をつく。

隣室から、しゃあぁ……と細い水音が聞こえてきた。

もし彼が責め立ててきたら――これは夫婦間の強姦として訴えられるのだろうか。勝てるのか。

ぼんやり考えて、すぐ首を振る。

この街で、氷川隼人を相手取る案件を引き受ける者などいない。

翌朝。

千夏が目を覚ますと、氷川はまだリビングにいた。意外で、わずかに目を見開く。

だがすぐに顔を整え、机の引き出しから離婚届を取り出した。

財産分与は求めない。ただ終わらせたいだけ。

最後のページに署名し、彼の前へ置く。

氷川は一瞥し、冷笑してゴミ箱へ放り投げた。

「何を……!」

千夏の声が尖る。

氷川は眉を上げ、嘲る。

「相沢千夏。駆け引きのつもりか? それで俺が惚れるとでも」

千夏は怒りを通り越し、笑いそうになった。

「氷川社長。私たちの結婚は取引だった」

声は小さいが、揺るがない。

「取引は期限切れ。違う?」

氷川の顔がさらに暗くなる。

「誰が期限切れだと言った」

「忙しい。機嫌も悪い。そんなものに構っていられない」

彼は鞄を掴み、立ち上がった。

「会社がある。ふざける相手をしてる暇はない」

吐き捨てるように言い、振り返りもせず出ていく。

千夏はその背中を見送り、眉を寄せた。

午後。

親友の栗山弥希に誘われ、市中心部の人目の少ない小さなバーで酒を飲んだ。

弥希は話を聞き終えると、グラスを置き、真顔で言う。

「氷川隼人、ほんっとクズ。小林華絵といちゃつきながら、あんたのことは縛りつけて、都合よくこき使う気満々じゃん」

言葉はきつい。けれど否定できず、千夏は小さくうなずいた。

「もっと強気でいきなよ。あいつ、平気で人を潰すからね」

その瞬間、店に入ってきた小林華絵と小林靖が、その言葉を耳にした。

昨夜、自分が仕込んだ媚薬のことが脳裏をよぎり、小林華絵の顔色がさっと暗くなる。

――相沢千夏め。いいところだけ、全部持っていきやがって。

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