第4章 捨てられない責任

小林華絵は奥歯を噛み、相沢千夏の背中を刺すような視線を送った。冷たく、湿った闇が瞳の奥に沈む。

その視線にいち早く気づいた栗山弥希が、ちらりと二人を見やり、眉をきゅっと寄せた。

「ほんっとツイてない。なんでどこ行っても、あの姉弟にぶつかるのよ」

相沢千夏は小さく笑い、振り返ろうともしない。

「放っておけばいい。私たちは私たちで飲もう」

栗山弥希はうなずき、小林姉弟にこれでもかと白い目を向けて、ふん、と鼻を鳴らした。

小林華絵も愛想よく取り繕う気はないらしい。腕の中で苛立ちを隠せない小林瑛太を引き寄せ、奥の席へさっさと消えていく。

静けさが戻り、相沢千夏と栗山弥希はようやく息をついた。

「ねえ、千夏」

栗山弥希がグラスを指先で回しながら訊く。

「氷川隼人が最後まで離婚に応じなかったら、どうするつもり?」

相沢千夏は視線を落として少し考え、ゆっくり口を開いた。

「別居する。別居が二年続けば、こっちが勝てる可能性が上がるから」

一度、酒をひと口含む。

「でも、あの人は小林華絵のことが大好きでしょう? 再婚したくてたまらないはず」

「とにかく、早く縁を切りたいの」

相沢千夏はグラスを置き、息を整えるように続けた。

「病院の近くに部屋を借りて、雪乃に付き添うつもり」

相沢雪乃。千夏の三つ下の妹で、ずっと入院している。

この二年、千夏は氷川隼人の解毒に追われ、妹のそばにいる時間がほとんど取れなかった。離婚できるなら、今度こそちゃんと面倒を見たい。

「部屋を借りるって……」

栗山弥希が瞬きをする。

「いま、そんな余裕あるの?」

相沢千夏は軽く咳払いをした。

この二年、氷川の母は毎月ほとんど欠かさず生活費として4000万を渡してきた。そのうち2000万は隼人の治療費。残りの2000万は必要最低限の買い物以外は貯め、雪乃の入院費に回していた。

けれど、隼人を一刻も早く治すには、希少な香材を薬引きにするしかなかった。千夏は歯を食いしばり、オークションで龍彫りの香木を匿名で1億6000万で落札した。

その後、隼人の隠れた病は加速度的に良くなり、千夏も二年で「役目」を終えた。代償は、貯えがほとんど残らなかったこと。

さらに追い打ちをかけるように、その頃ちょうど氷川の母に事件が起き、訴訟沙汰となり、千夏へ渡される生活費も半分に減った。

いま、離婚して独り立ちし、部屋を借りる。正直、心許ない。

栗山弥希はじっと彼女を見つめ、ふっと何かを決めたように言った。

「じゃあ、私が先に貸す。まず部屋を押さえて、仕事はゆっくり探しなよ」

言い切って、弥希は明るく笑う。

「心配しないで。任せて。三日で全部整えるから。絶対、満足させる」

相沢千夏は一瞬言葉を失い、胸の奥がじわっと熱くなった。

「弥希……ありがとう。お金は必ず返す」

「なにそれ。水くさい」

栗山弥希は笑いながら、相沢千夏の手を握った。

「私たち、親友でしょ。いま一番大事なのは、千夏と雪乃のこと。それ以外は後でいい」

相沢千夏はふっと笑みを咲かせ、真剣にうなずく。

栗山家はK市でもそれなりに名の通った家で、栗山弥希はとりわけ大事に育てられた存在だ。千夏はそれを知っている。だからこそ、彼女の申し出に甘える決心もついた。

病院近くの家賃は、甘い額じゃない。

その夜。

相沢千夏は氷川グループの私立病院へ向かった。

相沢雪乃がいるのは神経内科のVIP病室。医療費はこの二年、氷川家が負担してくれていた。離婚となれば、これからは自分で稼がなければならない。

幸い、雪乃の病状はひとまず落ち着いている。退院後に別の病院へ転院するのも現実的だ。

病室に入ると、雪乃がベッドの上で本を読んでいた。

「お姉ちゃん?」

気配に気づいたのか、雪乃が顔を上げる。

「どうしたの……来てくれたの?」

雪乃は千夏に七分ほど似た美貌を持っている。ただ、長い入院生活のせいで顔色は青白く、薄い唇をきゅっと結んだ姿がどこか儚い。

「顔を見に来たの」

相沢千夏は微笑み、妹の頬にそっと触れた。

「体調はどう?」

「だいぶ良くなったよ。先生も、もう少しで退院できるって」

嬉しそうに言いかけて、雪乃はふっと視線を落とす。

「でも、退院しても薬はずっと飲まなきゃだし……また入院になるかもしれない」

鼻をすすり、声が詰まった。

「私……もうお姉ちゃんに迷惑かけたくない。病気だって先天性だし、ここまで生きられたのが……」

「ストップ」

相沢千夏の胸がきゅっと痛み、声が少し強くなる。

「そんなこと、二度と言わないで。あなたは私の唯一の家族。私が一生背負う荷物よ。迷惑だなんて思ったこと、ない」

澄んだ茶色い瞳でまっすぐ見つめられ、雪乃の目が一瞬で赤くなる。

そっと腕を伸ばし、相沢千夏を抱きしめた。

そのとき、病室のドアが開いた。

風見礼司が花束を抱え、肩の力の抜けた私服姿で入ってくる。

「タイミング、悪かったかな」

柔らかな声で、花をベッドサイドに置く。笑みを含んだ目。

「礼司兄さん」

雪乃は乱暴に涙を拭い、手元の本を持ち上げて笑った。

「くれた本、すごく面白い。私、このお話大好き」

「気に入ってくれてよかった」

風見礼司は雪乃にうなずき、それから相沢千夏へ視線を移した。露出した手首に残る赤い痕と、顔に滲む疲れを見つけ、眉がわずかに寄る。

「雪乃、休んでて」

低く言ってから、相沢千夏へ。

「千夏と少しだけ、話したい」

相沢千夏が返事をする前に、雪乃が先にうなずいた。

「お姉ちゃん、行ってきて」

「うん」

相沢千夏は妹の頭を撫で、風見礼司と廊下の隅へ移動した。

「その手……昨夜、氷川隼人に?」

風見礼司が訊ねる。心配の奥に、言い切れない複雑な色が滲んだ。

「何をされた?」

相沢千夏は一瞬固まり、反射的に手を背中へ隠して首を振る。

「何でもない。考えすぎ」

「見せて」

礼儀正しい口調のまま、有無を言わさず手を取った。

手首には痣。親指の付け根と人差し指の腹には、ガラスで切ったような傷。

風見礼司の顔色が変わり、唇を引き結ぶ。男ならわかる。卑劣な独占欲の匂いがする。

相沢千夏は咄嗟に理由を作った。

「昨夜、グラスを割っただけ。ほんとに大丈夫。小さな怪我だから」

風見礼司は笑みを崩さず、彼女の手をそっと包み込む。

「全身の検査をしよう」

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