第6章 調香師

三日後。栗山弥希は相沢千夏を連れて、高級住宅マンションの前に立った。

「ほら、ここ! どう?」

弥希はにこっと笑い、目の前の二十階建てのモダンな建物を指さす。

「このマンション、桐野マンションっていうの。病院まで歩いて五分だし、交通も便利だよ」

そう言いながら千夏を連れてエレベーターに乗り、十二階へ。鍵を取り出して、1205号室のドアを開けた。

「わぁ……」

千夏が足を踏み入れた瞬間、思わず声が漏れる。

きれいに整えられた2LDK。間取りはすっきりしていて、採光も申し分ない。

玄関を抜けるとすぐ広いリビング。南向きの大きな窓から午後の光が差し込み、ブラインド越しの陽射しがベージュの床にまだらな影を落としていた。

千夏はゆっくり窓辺へ歩み寄り、外を見下ろす。

敷地内の庭園は緑が濃く、小さな噴水まである。静かで、綺麗で——どこか現実味がない。

「それとね。もうひとつ、ちょっとしたサプライズ」

弥希が意味ありげに笑って、千夏の手を引いた。リビングの窓際の一角。

そこには、上質な無垢材の作業台が置かれていた。長さは約1.2メートル、幅は80センチほど。立ち仕事にちょうどいい高さだ。

上には角度を変えられるLEDライト。左にはガラスの試験管とメスシリンダー、右には小型の電子秤がいくつか。三段のガラス棚には香水瓶やツールが並べられるようになっている。

そして背面には大きな窓。自然光がまっすぐ差し込む位置だった。

「私、調香のことは詳しくないけど、基本くらいは知ってるの」

弥希は楽しそうに千夏を見た。

「光とか、換気とか。大事でしょ? ここ、ちょうどいいと思って」

その一言で、千夏の視界が滲んだ。

指先で作業台の天板をそっと撫でる。木の温度が、胸の奥まで染みてくる。

「弥希……ほんと、ここまでしてくれるの」

千夏は弥希の手を握り返し、声が詰まった。

「ありがとう。あなたのしてくれたこと、絶対に忘れない」

「はいはい。私は言ったことはちゃんとやるの」

弥希は照れ隠しみたいに笑って、軽く肩をすくめる。

「そんな湿っぽいの、千夏らしくない。気に入ったなら、今夜から住んじゃいなよ」

千夏は小さく笑って、うなずいた。

その日の夕方。

氷川隼人が出張で不在の隙に、千夏は音も立てず荷物をまとめた。

持ち出したのは、着替えが数着、スキンケア用品、それと調香の専門書が数冊。

氷川家で過ごした二年は、まるで通り過ぎただけだった。残すものが、驚くほど少ない。

新居で迎えた最初の夜。

千夏は主寝室のベッドに横たわり、窓の外の月光を見つめた。

ここには氷川隼人の冷たさも、小林姉弟の計算もない。

あるのは、自分の呼吸が許される空間だけ。

目を閉じると、すぐ眠りが落ちてきた。

一週間後。K市美術館。

特別な個展が開幕した。

風見礼司の個展『癒やしの夏』。

会場には芸術好きだけでなく、医療関係者の姿も多い。展示された三十点はいずれも「医療」と「人文ケア」を軸にしていて、医師の現場、回復の瞬間、病床で本を読む少女——どの絵にも温かさと希望が宿っていた。

千夏は淡いブルーのワンピースで、静かに会場を巡っていた。

氷川家を出た翌日に招待状が届いた。開店準備で慌ただしい中でも、どうしても来たかった。

式が半ばに差しかかったころ、風見礼司が壇上へ上がる。マイクを握り、穏やかに笑った。

「皆さま、本日はお忙しい中お越しいただき、ありがとうございます」

一呼吸置き、ゆっくりと言葉を継ぐ。

「この作品たちを通して、芸術と医学が重なり合う力を感じていただけたら嬉しいです」

そして、目線が客席を探す。

「それから、特別にご紹介したい友人がいます。相沢千夏さんです」

一拍。

「彼女はとても優秀な調香師で、近々ミラン通りに香りのアトリエを開きます。香りは感情や体調にも影響する。今日のテーマとも重なる部分があると思いまして……千夏、よければ上がって一言、もらえますか」

千夏の心臓が跳ねた。

聞いてない——。

ざわ、と周囲が揺れる。

「相沢千夏って……あの地方出身の? 氷川社長の奥さんよね」

「夫婦仲、良くないらしい。社長は前から想い人がいるって……離婚で揉めてるとか。気の毒」

「でも、家も厳しくて両親もいないって聞いた。妹も病弱なんだよね。調香の勉強、氷川家の金じゃないの?」

雑音みたいな言葉が耳に刺さる。

千夏は小さく眉を寄せ、深く息を吸った。風見礼司と目が合う。

——大丈夫。

背筋を伸ばして、壇上へ。

「皆さま、相沢千夏です」

澄んだ声が会場に通る。

「調香を学び始めたのは趣味がきっかけで、経験は八年になります。結婚してから始めたわけではありません」

一度、客席を見渡す。

「これから私の名前を聞いたとき、『誰かの奥様』ではなく『調香師の相沢千夏』を思い浮かべていただけたら嬉しいです」

風見礼司へ視線を向け、柔らかく続ける。

「風見さんに評価していただけて光栄です。作品もとても力強い。香りは感情を整え、ストレスを和らげ、ときに治療の助けにもなります」

そして一礼。

「私のアトリエが、皆さまの暮らしに少しでも心地よさを届けられますように。本日はありがとうございました」

拍手が会場を包んだ。

千夏は丁寧に頭を下げ、壇を降りる。

同じころ。氷川グループ社長室。

氷川隼人は社長椅子に深く腰掛けていた。Y市から戻ったばかりで、デスクには書類が山積みだ。

酒井陽介がコーヒーを片手に入ってくるなり、面白がる顔でスマホを差し出した。

「これ、見ろよ」

画面には、風見礼司の個展の配信。

「お前の奥さん、なかなかやるじゃん。風見礼司と息ぴったり」

その言葉に、隼人のペン先が止まった。

ゆっくり顔を上げ、酒井を冷えた目で射抜く。

「まだ離婚してない」

声は低く、硬い。

「はいはい」

酒井は肩をすくめる。

「でもさ、人が逃げてんのに、見に行かなくていいの? 俺はね、あの子、何か抱えてる気がする」

隼人は不機嫌そうに眉を寄せた。

帰国した途端、執事から「相沢千夏が出て行った」と聞いた。電話をしても出ない。

結婚して二年。調香の話など一度も聞いていないのに、風見礼司は全部知っている。

そのとき、スマホが震えた。

小林華絵からのメッセージ。

【隼人、もうすぐ二週間なのに、どうして返事くれないの。出張から戻った?】

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