第7章 誰を愛するか

氷川隼人はメッセージを一瞥しただけで、返信しなかった。

数分後、また通知が入る。相手はやはり小林華絵だった。

【何度も電話したのに出ない。まだ忙しいの? 私、何かした? 怒らせちゃった?】

氷川隼人は、それでも画面を閉じた。

隣で一部始終を見ていた酒井陽介が、ますます面白そうに口元を歪める。

「最近どうしたんだよ。いっつも一番大事にしてた華絵ちゃんまで放置か? あれだけ焦ってたら、そのうち会社に乗り込んでくるぞ。そしたら小林おじさんにまた小言言われるんじゃね?」

「黙れ」

氷川隼人は鼻で笑った。

「車を回せ。出かける」

「はぁ? 俺を私用運転手扱いすんなよ」

酒井陽介は白目をむきつつも、ドアへ向かう。——が、ふと何かを思いついたように足を止め、さっとスマホを取り出した。

【華絵ちゃん、隼人が戻った。これから美術館で展示見るけど来る?】

【俺が言ったってバラすなよ】

返信はほぼ秒だった。

【本当!? よかった! すぐ行く! 絶対言わない!】

酒井陽介はにやりと口角を上げる。——これは、面白くなる。

十分後。酒井陽介は美術館の展示ホール近くに車を停めた。

二人が降りた瞬間、白い雪紡のロングドレスを揺らしながら、小林華絵が早足で近づいてくる。

「隼人! 久しぶり。帰ってたのね」

甘い笑みを浮かべたまま、彼女は小首を傾げた。

「あなたたちも展示を見に来たの? 偶然ね」

氷川隼人は酒井陽介を冷たく一瞥し、淡々とうなずく。

「……ああ」

なぜだか後ろめたくなった酒井陽介は、咳払いで誤魔化した。

「行こうぜ。中入ろう」

小林華絵は氷川隼人の表情をうかがいながら、そっと彼の腕に絡める。

氷川隼人は一瞬だけ固まったが、振りほどかなかった。

その反応に、小林華絵は胸の奥の重さをふっと下ろす。触れられるのを拒まない——なら、大事にはなっていない。

会場は人でごった返していた。けれど氷川隼人は、一目で見つけた。

人波の向こう、風見礼司の隣に立つ相沢千夏を。

そして相沢千夏も、何かに呼ばれたようにふと顔を上げる。行き交う人の隙間越しに、氷川隼人の青い瞳とぶつかった。

視線が交わった刹那、時間が止まったように感じた。

相沢千夏の瞳にわずかな驚きが走る。だが次の瞬間には凪いだように落ち着き、何事もなかったかのように視線を外した。

氷川隼人は若くして氷川グループを率いる男だ。K市で知らぬ者はいない。

そのうえ隣には酒井家の次男・酒井陽介、さらに小林家の令嬢・小林華絵。目立たないほうが無理だった。

ひそひそ、ざわざわ。噂の匂いが空気に滲む。

「氷川社長じゃない? どうしてここに……小林さんとあんなに」

「でも奥さんのほうも風見先生と親しそうだし。牽制に来たんじゃない?」

「上の世界なんて、結婚してても好きに遊ぶでしょ」

囁きが増えるたび、氷川隼人の表情は沈んでいく。胸の底に不快が潮のように満ちた。

小林華絵も気まずそうに笑みを保つ一方、酒井陽介だけは絵を眺めながら、心の中で爆笑していた。

そのとき——。

氷川隼人の視界の端に、風見礼司が相沢千夏の額の髪をそっと払う仕草が映る。

優しい眼差し。相沢千夏も拒まない。

たったそれだけの動きが、氷川隼人の中で何かをぷつりと切った。

氷川隼人は小林華絵の腕を外し、人混みを割って大股で進む。

そして風見礼司の目の前に立った。

「風見先生。いい展示だな」

褒め言葉の形をしていながら、声は冷えきっていた。

「医者としても優秀で、絵まで描けて、ついでに人の世話まで上手いとは」

風見礼司は棘を感じ取っても、礼を崩さない。

「過分なお言葉です。ただの趣味ですよ」

「趣味?」

氷川隼人は冷笑し、相沢千夏を一瞥した。

「趣味にしちゃ、宣伝も段取りも出来すぎだ。……だが風見先生、一つ忠告しておく」

目が危うく細まる。

「触れていい相手と、触れちゃいけない相手がいる。越えていい線と、越えちゃいけない線がある」

周囲の空気が張り詰めた。客たちは言葉を飲み込み、視線だけが集まってくる。

相沢千夏が眉をひそめて口を開きかけた、その瞬間——氷川隼人が先に遮った。

相沢千夏へ向き直り、拒絶を許さぬ声音で言い放つ。

「帰るぞ。話がある」

相沢千夏は目を細め、ためらった。ここで揉めれば、風見礼司の展示が台無しになる。

これだけ注目を集めている状況で拒めば、彼が矢面に立たされるだけだ。

「……わかった」

相沢千夏はうなずき、氷川隼人を真っ直ぐ見返した。

「でも言っておく。礼司とは小さい頃から一緒。分別くらい、わきまえてる。——どこかの誰かみたいにしない」

その言い回しに、横で聞き耳を立てていた酒井陽介が吹き出した。

「ぷっ……!」

氷川隼人が殺気のこもった目で睨み、こめかみに青筋が浮く。

——そのとき。

「あっ……痛い——!」

甲高い悲鳴が上がり、視線が一斉にそちらへ向く。

小林華絵が足首を押さえ、青白い顔でしゃがみ込んでいた。

「華絵、どうした」

氷川隼人は反射的に駆け寄り、支える。

「足……捻ったみたい。あなたが急に行っちゃうから、追いつけなくて……」

唇を噛み、涙を溜めて見上げる。

「隼人、私……歩けないかも」

氷川隼人は眉を深く寄せる。彼は小林華絵の弱い表情に弱い。

迷いを切り捨てるように、彼女を横抱きにした。

「大丈夫だ。病院に行く」

「だ、大丈夫……」

小林華絵はかすかに首を振る。

「千夏さんのこと、先に……陽介さんが送ってくれれば——」

言葉とは裏腹に、胸の奥は勝ち誇っていた。わざとヒールを踏み外したのだ。

相沢千夏と二人きりにさせるわけにはいかない。

「怪我は放置できない」

氷川隼人は冷たく言い捨てる。

「彼女は酒井陽介が送る」

そのまま彼は小林華絵を抱えて去った。

会場はため息と囁きで満ちる。

誰が本命か——明らかだと言わんばかりに。

一度の画展で、媒体は十分に飯が食える。

酒井陽介は、明朝のエンタメニュースの見出しを想像して、さらに愉快になった。

ちらりと相沢千夏を見ると、当の本人は驚くほど無表情で、まるでどうでもいいとでも言いたげだった。

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