第1章
「んっ……ゆ、ゆっくり……もう、無理……」
柔らかな指先が男の広い背中に食い込み、赤い筋をいくつも刻む。
西原雨子は喉が枯れるまで声を上げて、ようやく解放された。
酒も薬も切れた今、身体に残っているのは、ただの疲労だけ。
彼女はそっと、腰に回されていた藤原英世の腕を押し下げる。脚はふらつき、ベッドから降りて服を身につけるだけで精一杯だった。
昨夜――薬を盛られたあと、ふらふらと彼の部屋に転がり込んだ。照明は薄暗く、相手も酒が入っていたのか、呼吸は荒く、体温は異様に熱かった。
二人が長い時間、絡み合ってからようやく顔を見て、雨子は凍りついた。
――藤原家当主、藤原英世。
女に近寄らない。容赦がない。決断が早い。
彼を算段にかけた者は、確実に死ぬ――そんな噂の男。
近づいた女は、いつの間にか姿を消すか、悲惨な末路を辿る。
自分だって薬を盛られた被害者なのに、起きてしまったことは戻らない。どう言い訳したところで信じてもらえるはずがない。
逃げたところで見つけ出されて、骨まで砕かれる。挫骨揚灰――そんな未来が、やけに鮮明に浮かんだ。
……それでも、逃げるしかない。万が一、顔を覚えられていないなら。
それに彼女には政略の婚約者がいる。露見すれば、家にも迷惑がかかる。
ホテルを出てから、首元が軽いことに気づいた。
ダイヤのネックレスがない。
幸い、人工ダイヤだ。もし本物だったら、弁償なんて到底できない。
別の部屋を取り直し、シャワーを浴びて着替えてから、西原雨子は家へ戻った。
朝6時。
姉の西原七海は邸宅のリビングでヨガをしていて、雨子を見るなり目を見開いた。
「昨夜、家にいなかったの?」
雨子は胸の奥がひゅっと縮み、曖昧に頷く。
「うん……酒会でたまたま大学のルームメイトに会ってさ。話してたら遅くなって、向こうの家に泊めてもらった」
「そう」
「それと……」雨子は首筋に手を当てる。「姉さん、ネックレス落としちゃった。ごめん」
「安いのだから気にしないで」七海は目尻を弓なりにして笑う。「今日は展示会でしょう? 準備しなさい。企画書、昨夜また手直ししておいたから机に置いたよ。ちゃんと目を通して」
雨子はほっと息を吐き、礼を言って階段を上がった。
十八のとき、家は彼女が実子ではないと知り、七海が本来の娘として戻ってきた。
けれど雨子は運がよかった。両親は偏らず、七海を補う一方で、彼女をないがしろにもしなかった。姉妹はずっと対等――表向きは。
七海は商才があり、仕事でも助けてくれる。昨夜のように、パーティー用のネックレスまで貸してくれる。
「雨子」
階段の途中で、七海が不意に呼び止めた。
どこか含みのある声。
「もし、私たちが同じ男を好きになったら……あなたは私と奪い合う?」
「え?」雨子は予想外すぎて首を傾げた。「姉さん、何言ってるの。私は中身空っぽのイケメンしか好きじゃないし、そういう男、姉さんは絶対興味ないでしょ」
笑って、続ける。
「でも、もし本当にそんな日が来ても、私は奪わないよ。だって……もともと、いろいろ姉さんのものだったのに、私が――」
「取り違えはあなたのせいじゃない」七海が遮った。
雨子は笑顔のまま、寝室のドアを閉めた瞬間に頬をゆるめた。
どれだけ仲良く見えても、血は繋がっていない。知り合って二、三年の他人だ。
壊れやすい関係を保つのは難しい。壊すのは、簡単。
考えないように首を振り、もう一度シャワーを浴びてから、保守的な長いワンピースを選んだ。身体に残った痕を隠すため。
七海が直してくれた企画書を手に、ダブルの濃いコーヒーを一気に流し込み、会場へ向かった。
展示会は人で溢れていた。
雨子は西原傘下の新設テック企業の代表として登壇し、順番は4番目。
スピーチは順調に終わり、壇上を降りながら客席をざっと見渡した、その瞬間。
陰の沈んだ視線と、目が合った。
背筋が固まり、足を取られそうになる。
――藤原英世。
できるだけ自然を装って視線を逸らしたが、氷のような眼差しが自分に刺さり続けているのが分かる。
まさか……気づいた?
ぎこちない足取りで席へ戻ると、息を整える間もなく、秘書然とした男が近づいてきた。
「西原さん、藤原様がお呼びです」
雨子の心臓が跳ね上がる。
「……分かりました」
顔を引きつらせながら立ち上がった。
英世はすでに先ほどの席にはいない。
案内に従って会場脇の廊下へ入り、控室に通される。ソファには、長い脚を組んだ英世がいた。仕草は上品で、近寄りがたい。
深い黒のスーツが冷たい白肌を際立たせ、明るい照明の下では彫りの深い顔立ちがいっそう鋭い。
昨夜の闇の中の熱さとは違う。今の彼は、触れれば切れる氷そのものだった。
雨子は落ち着かない声で挨拶する。
「藤原様」
「君の企画書にある低消費電力のセンサーモジュール、コストは最低どこまで圧縮できる?」
一瞬、雨子は呆けた。
英世の手には、刷りたての資料。
――呼ばれたのは昨夜の件ではなく、純粋にプロジェクトへの関心。
胸の奥の重石が、ようやく落ちた。
雨子はすぐに説明を始める。長く温め、準備し続けた案件だ。言葉は自然と滑らかになり、目に光が宿る。
「発想は悪くない」
聞き終えた英世は、褒めているのか分からない評価を落とした。
そして立ち上がり、彼女の前まで歩いてくる。
距離が詰まった途端、馴染んでしまったアフターシェーブの香りが鼻を突いた。
耳の下に、ごく薄い赤い痕。
昨夜、自分が彼の顔を両手で掴んで噛んだ――そんな記憶が雷みたいに蘇る。
心臓が乱暴に跳ねる。
後ずさりしそうになる脚を必死で押さえ込んだ。
怯えていると悟られたら終わりだ。仮に気づかれていても、絶対に認めない。
「どこかで会ったことがある気がする」英世が言った。
視界が一瞬、暗くなる。
笑うことすらできず、雨子は声を絞る。
「……そ、そうでしょうか」
「去年の慈善晩餐会だ」英世は淡々と続ける。「西原隼人の娘か?」
「はい」声が震えた。
――暗示じゃない。昨夜のことじゃない。
「以前、酒席で何度かお見かけしました。覚えていてくださったなんて」
英世は短く頷く。
「藤原と、深い協業をする気はあるか?」
プロジェクトチームごと藤原へ――という意味。
西原家にとっては願ってもない話だ。けれど、それはつまり、これから英世と同じビルで働くということ。
もし調べが進み、あの夜の女が社員だと突き止められたら、どうなる。
黙り込む雨子を見て、英世は急かさなかった。
「考えていい」
側の男に目配せし、名刺を差し出させる。
「一週間以内に返事を」
名刺には藤原秘書室の公式連絡先。
「……はい。ありがとうございます、藤原様」
受け取ろうとした瞬間、白い指の甲に弓なりの赤い歯形が見えた。
昨夜、彼女が彼を掻きむしり続け、堪えきれなくなった彼が彼女の手を掴み、罰のように噛んだ――あの痕。
雨子は感電したように手を引っ込め、名刺が床に落ちた。
