第3章

西原七海は、本当はその場で「いい」と頷きたかった。

けれど、あまりに早く藤原英世と付き合えば、西原雨子だって馬鹿じゃない。きっと、自分が名乗り出たこと――つまり「なりすまし」を疑う。

雨子が一歩前に出て暴露した瞬間、全部終わりだ。

だから七海は、いったん身を低くすることにした。表では大人しく、裏で機会をうかがいながら、この厄介事を片づける。

藤原英世は、目の前の女が平然と条件を出してくること自体が意外だったのか、視線に値踏みと、どこか面白がる色が混じった。

「言ってみろ」

あの夜の、鮮烈すぎる感触が脳裏をかすめる。だからこそ、七海が何を望むのか――妙に気になった。

西原七海はひとつ深呼吸してから、慎重に言った。

「お付き合いはできます。ただ、その前提として……」

「しばらく、私たちの関係は公にしないでください」

藤原英世は、ふっと黙った。

K市で彼に近づきたがる女など掃いて捨てるほどいる。せっかく機会を与えたのに、公にしたくないだと?

――俺は、人に出せない男だとでも言うつもりか。

西原七海は不安げに彼の表情をうかがう。

怒って……いない、ように見える。

七海は声を柔らかくして言い訳を重ねた。

「私……恋愛経験がなくて。だから、二人の「慣らし期間」が欲しいんです」

藤原英世には分かっている。あの夜の女が初めてだったことくらい。

入った瞬間、痛みで泣きそうになって、堪えきれず罵った。

『バカ! 下手くそ!』

その一言で理性が吹き飛びかけた。喉の奥まで獣じみた欲がせり上がったのに、彼は飲み込んだ。黙って彼女を導き、上に乗せた。

人生で初めて女を宥めた。口調は不器用で硬いまま。

「……そのほうが楽だ。ゆっくりでいい」

最初の壁を越えたあとは、驚くほど身体が噛み合った。

あれほど「楽」になったのは、初めてだった。

……

記憶の熱が胸の底を掠め、藤原英世はほんの少しだけ堪えが緩む。

「分かった。しばらくは非公開でいい」

西原七海は清純な笑みを浮かべ、どこか恥じらうように瞳をきらきらさせた。まるで、人生で初めての彼氏を興味津々に眺める少女みたいに。

藤原英世と目が合う。

普通なら、多少は心が動くはずだ。目の前の女は、男の「理想像」をそのまま形にしたような顔をしている。

それなのに、何も起きない。

心は水面のように静かだった。

――おかしい。

あの夜、確かに彼は制御不能になったのに。今は、こんなにも冷静だ。

藤原英世が自分から言葉を重ねないのを見て、西原七海は小さく落胆した。

普通の男なら、すぐ夢中になると思っていたのに。

けれど相手は藤原英世だ。並の誘惑が通じないのも当然だと、七海は笑顔を作り直す。

連絡先を交換し、従順に言った。

「お忙しいですよね。用事があれば私から連絡します。もちろん……あなたが会いたくなったら、西原へ来てください」

藤原英世は女とのやり取りが得意ではない。胸は動かず、ただ平静に頷いた。

「藤原様、次のご予約のお時間が……」前席から控えめな声が飛ぶ。

藤原英世は最後に七海を一瞥し、窓がゆっくりと閉まった。

……

夜。食卓。

西原七海が時折冗談を挟み、林原愛と西原海人は声を立てて笑う。

対して西原雨子は、静かすぎるほど静かだった。

本当は、七海が戻るまで家のムードメーカーは雨子のほうだった。だが今は違う。そんな役を担う資格など、もうない。

透明な背景でいい。時々、観客みたいに拍手していればいい。

昔の彼女は空気なんて読めなかった。笑うときは笑い、怒るときは怒った。余計なことは考えなかった。

あの頃の彼女は西原家の令嬢だった。後ろ盾も、自信も、何より両親の愛があった。

でも今の彼女には、何もない。

「ねえ雨子。藤原様に協業をって言われたんでしょう? どうするの。まだ決めてないってことは、行きたくないの?」

西原七海が箸を動かしながら、ふいに雨子を見る。

その視線が、どこか複雑に見えて、雨子は目を伏せた。何でもないふりをして言う。

「私、力不足だし……藤原には行かない。お父さん、プロジェクトの周防さんと佐藤さんは頼れるし、二人で話を進めても――」

言い終える前に、西原海人が遮った。眼差しは厳しく、真っ直ぐだ。

「雨子。この案件はお前が主導した。周防も佐藤も、俺の前でお前を褒めちぎってる。藤原へ行くのはお前が一番だ。……それに分かっているはずだろう。うちの規模の会社が藤原と組める意味を」

西原七海は箸を握る指に力が入った。笑顔が、ほんの少しだけ引きつる。

外から見れば七海は名門大卒で仕事もできる。けれど雨子だって、西原家で十八年かけて育てられてきた。K市で一番の教育資源を浴びてきたのは、雨子のほうだ。

二人を比べて、どちらが上かなんて簡単に言えるものじゃない。

西原海人の声がさらに強くなる。

「雨子、お前は最近自信がなさすぎる。若い人間にとって、それは良くない。今回は必ず行け。お前の舞台はもっと広い。西原は踏み台だ。行ってこい。俺は信じてる」

林原愛は、夫がここまで雨子を買っているとは思っていなかった。慌てて七海の顔色をうかがう。

――本当の娘の前で、よその子をここまで褒めるなんて。

林原愛は強引に話を切った。

「行きなさい行きなさい、もう決まり。食事中に仕事の話はやめて。聞いてると頭が痛くなるわ」

雨子は唇を噛み、か細く答えた。

「……分かった」

……

その夜、雨子は意を決して名刺の連絡先に申請を送った。

藤原英世はすぐ承認し、事務的に訊く。

「決めたか?」

「……うん。決めた」

画面越しなら、直接向き合わずに済む。胸の鼓動も、少しは落ち着く。

藤原英世の様子に異変はない。まだ気づいていない――たぶん。

「明日、プロジェクトの主要メンバーを藤原の研究開発センターへ連れてこい。詳細はそこで説明する。問題がなければ契約だ」

少し間を置いて、藤原英世がもう一つだけ訊いた。

「君に決裁権はあるのか?」

西原雨子は呼吸が詰まり、苦笑が漏れた。

藤原英世の性格なら、身元が曖昧な人間を自社に入れるはずがない。

彼は調べている。自分の「本物じゃない」身分も――きっと知っているはずだ。

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