第1章

「新入り? 気配りってもんができないわけ? コーヒー淹れてきなさいよ」

 振り返ると、オフホワイトのタイトワンピースに身を包んだ女がデスクに寄りかかっていた。腕を組み、あからさまな値踏みと侮蔑の視線を向けてくる。派手な顔立ちに、一糸乱れぬ巻き髪――社長よりも偉そうな態度だ。

 家を出る前、母から『同僚には親切に』と釘を刺されていた。私は本能的な不快感を押し殺し、静かに頷く。

「わかりました。少々お待ちください」

 鎌谷家の跡取りたるもの、コーヒー一杯淹れるくらいで屈辱を感じたりはしない。

 コーヒーを運び、カップを差し出す。指先が離れようとしたその瞬間、女の口元に冷笑が浮かび、不意にその指から力が抜けた。

 カップの半分以上のコーヒーが零れ落ちる――私の白シャツを汚し、彼女のオフホワイトのスカートにも濃褐色の染みを広げた。

「きゃああっ! あんた、目ぇついてないの!」

 女は悲鳴を上げて後ずさりした。

「自分のしたこと、わかってんの!」

 周囲の人間がすぐさま群がってきて、媚びへつらうような顔を向ける。

「晴子さん! 火傷はありませんか?!」

「コーヒーを運ぶことすらまともにできないなんて、本当にのろまね!」

 私は彼女の目を真っ直ぐに見据えた。

「あなたがわざと手を離したんでしょう。濡れ衣を着せないでください」

「濡れ衣ですって? あんたごときが、この私に濡れ衣を着せられるほどの価値があるって言うの!」

 女は残った半杯のコーヒーを私の足元に叩きつけた。ガチャンと音を立ててグラスが砕け散り、飛び散った破片が私の足首を掠める。

「これはChanelのグローバル限定オートクチュールよ。国内にたった三着しかないんだから! あんたを売り飛ばしても弁償できないわ!」

 彼女は私の鼻先に指を突きつけた。

「今すぐ、ここで土下座して謝りなさい――そうすれば、慈悲を与えてやらないこともないわ!」

 私は相手にせず、バッグからキャッシュカードを一枚取り出してデスクに置いた。

「弁償すればいいんでしょう」

 女はそのカードを数秒見つめて呆気に取られた後、大げさな嘲笑を爆発させた。

「ねえ、聞いた? この貧乏人が金持ちぶってるわよ!」

 彼女は涙が出るほど笑い転げている。

「このスカート、8000万するのよ! あんたのその格好、全身ひっくるめて1万円を超えてたら私の負けだわ!」

 周囲からもどっと嘲笑が湧き起こる。

 私は完全に愛想が尽き、きびすを返して歩き出した。

「待ちなさい! 誰が逃げていいって言ったの!」

 三人の同僚の女たちが立ち塞がり、人壁を作る。先頭に立つショートヘアの女が私を指差した。

「身の程をわきまえなさいよ。さっさと土下座して晴子さんに謝りな――晴子さんは浜松様の大切なお気に入りなんだから。彼女を怒らせるなんて、死にたいとしか思えないわね!」

 横にいた女も嬉々として言葉を被せてくる。

「去年も晴子さんに口答えしたインターンがいたけど、浜松様の一声で、その人はこの業界から完全に干されたんだからね」

 浜松。母が口にしていた『完璧な婚約者』。

 一人の秘書のために、いとも簡単に他人の人生を狂わせる――これが上司と部下の関係なわけがない。自分が図に乗った愛人を囲っていると、全世界に触れ回っているようなものだ。

 取り巻きに囲まれ、ちやほやされている晴子は、顎をツンと上げ、まるで蟻を見下ろす女王のような顔つきだ。

「今日ここで土下座して謝らないなら、多額の借金を背負わせるだけじゃ済まさないわ。この街で、物乞いすらまともにできないようにしてあげる」

 私はスマートフォンを取り出した。

「あら、誰かに助けを求める気?」

 彼女はまるで冗談でも聞いたかのように笑う。

「かけなさいよ! 好きなだけかければいいわ! このH市じゃ、今日ばかりは神様が来たってあんたを救えやしないんだから!」

 電話が繋がり、向こうから氷のように冷たい声が聞こえてきた。

「どちら様ですか」

 私は怒り通り越して笑みがこぼれたが、その声は恐ろしいほど冷徹だった。

「私よ、由梨――あなたの婚約者。あなたのその傲慢でふんぞり返った愛人さんが、尻尾を振る犬どもを引き連れて、私に地面に這いつくばって謝れって言ってるわ」

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