第2章

 圭也の声は冷たく硬く、有無を言わさぬ不快感が滲んでいた。

「由梨? いい加減にしろ。晴子はいつも弁えている、そんな真似をするはずがない。お前が来たばかりで、先に突っかかったんだろう!」

 私はスマホを握りしめ、怒りを通り越して笑いそうになった。

 事情も聞かずに、頭から泥水を浴びせてくるなんて。

「圭也」私は笑みを消し、氷のように冷たい声で言った。

「私、最初から最後まで、誰の名前も出してないんだけど。どうしてその横暴な女が晴子だって分かったの?」

 電話の向こうで、息を呑む気配がした。

「話にならないな!」

 ツーツーという無機質な音が響く。

 私は暗くなった画面を見つめ、瞳の奥に残っていた最後の熱が完全に冷え切るのを感じた。

「あら、お芝居は終わった?」

 晴子がハイヒールを鳴らして歩み寄り、真っ赤なネイルを施した指を私の顔に突きつけるようにして、フロア中に響き渡る声で鼻で笑った。

「適当な空き番号に掛けて圭也って叫べば、誤魔化せるとでも思った? H市で浜松社長が有名な独身貴族だってこと、知らない人間はいないわよ。どこの馬の骨だか知らないけど、社長にすり寄るなんていい度胸してるじゃない!」

 笑い声がピタリと止む。その華やかな顔が瞬間的に歪んだ。

「さあ、土下座しなさい。自分がただの虚勢を張ったクズだと認めて私に謝るなら、今日だけは見逃してあげるわ」

 鎌谷家の唯一の跡取りとして、私にそんな口を利く人間はこれまで一人もいなかった。あの鉄の女と呼ばれる母でさえ、私にきつい言葉を投げかけたことはない。

 私は怒ることもなく、逆に少し顎を上げて困惑したような表情を作った。

「ごめんなさい、よく聞こえなかった。私が、あなたを何だと認めればいいって?」

 晴子は上手くいったと思い込んだのか、腕を組み、ツンと顎を上げて大声で繰り返した。

「虚勢を張ったクズよ!」

「なるほど」私は同意するように頷き、口角に嘲りの笑みを浮かべた。

「あなたが自分を虚勢を張ったクズだと皆の前で大声で認めてほしいなら、もう追及はしないわ。じゃあ、そこの『クズ』さん、どいてくれる? 仕事があるの」

 周囲の社員の何人かが堪えきれず、吹き出した。

 晴子の顔から得意げな表情が瞬時に消え去り、目に見える速さで赤黒く染まっていく。

「よくもコケにしてくれたわね——!」

 彼女は右手を振り上げ、鋭い風切り音とともに私の頬を平手打ちしようとした。

 私は目を鋭く光らせ、電光石火の速さで左手を伸ばし、彼女の手首を万力のように掴んだ。

「離して! この——」

 私は右手を大きく振りかぶり、彼女の整った顔を思い切り張り飛ばした。その凄まじい威力に彼女の頭は大きく横に弾かれ、完璧にセットされた巻き髪が瞬時に乱れる。私は手を離し、そのまま勢いよく突き飛ばした。

「きゃあ——!」

 晴子は床に激しく叩きつけられ、デスクの角に膝をぶつけ、毛をむしり取られた野鳥のように無様な姿を晒した。

 フロアが静まり返る。

「嘘……晴子さんを殴った……」

「狂ってる! 社長が来たら、電話一本でこの街から消されるわよ!」

 周囲の怯えた囁きを聞きながらも、私の心は凪いだままだった。浜松家が今日あるのは、すべて私の母の資金と人脈の援助があったからだ。鎌谷家がなければ、彼は今でも一族の権力闘争の泥沼でもがいていただろう。この街で、私が誰かを恐れることなどあり得ないのだ。

 私は床に倒れた晴子を冷ややかに一瞥し、背を向けてエレベーターへと歩き出した。

「待ちなさいよ!」

 彼女は狂犬のように床から這い上がり、半分赤く腫れ上がり、くっきりと五本の指の跡がついた顔で、周囲の社員たちを指差して金切り声を上げた。

「あんたたち、突っ立ってないで捕まえなさいよ!」

 数人の女性社員がハッと我に返り、凶暴な顔つきで私に襲いかかってきた。

 三、四人に完全に包囲され、誰かに髪を引っ張られ、腕を狂ったように掴まれる。私は必死に抵抗し、足を持ち上げて前にいる人間を蹴り飛ばした。その時、「ビリッ」という音とともにシャツの襟元が無惨に引き裂かれ、白い肩が大きく露わになった。

「殺してやる!」晴子が手を振り上げて突進してくる。

「何事だ!」

 低く、しかし圧倒的な貫禄を帯びた声がエレベーターホールから轟き、空気が一瞬で凍りついたかのように思えた。

 全員がビクッと体を震わせ、その場に釘付けになる。

 極限まで無駄を削ぎ落とした最高級のオーダーメイドスーツに身を包んだ圭也が大股で歩み寄ってくる。その彫刻のように冷徹な顔には、恐ろしい嵐の予兆が渦巻いていた。

「浜松社長!」

 つい先程まで人を引き裂かんばかりの勢いだった晴子は、彼の姿を見た途端に目頭を赤くし、真珠の糸が切れたように涙を零した。彼女は弱々しく彼にすがりつき、スーツの袖口を握りしめて泣き崩れた。

「やっと来てくださったんですね……この女、わざと私にコーヒーをかけて、ドレスを台無しにしたんです! 私が親切に注意してあげたら、逆ギレして殴りかかってきて……見てください、私の顔……」

 彼女は赤く腫れた顔の半分を彼に近づけ、虐げられた小猫のように振る舞った。

 圭也の視線は惨状を舐め回し、泣きじゃくる晴子を通り過ぎて、最後に私へと注がれた。乱れた髪、そして完全に引き裂かれ、肩を露出したシャツ。彼の瞳が急激に収縮し、眉間には深い皺が刻まれ、その目は到底読み解けない複雑な色を帯びていた。

 誰もが息を呑み、私が彼の手でこのビルから放り出されるのを今か今かと待ち構えている。

 私は圭也の威圧的な視線から逃げることなく、一歩前へと踏み出した。

「浜松圭也」

「社員が束になって社長の婚約者の服を剝ぎ取るのが、おたくの会社のルールなの?!」

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