第3章
「彼女、本当に社長の婚約者なの?!」
群衆から息を呑む音がどっと漏れた。
圭也は両手をポケットに突っ込んだまま、腐敗物でも見るかのような冷ややかな視線を向けて口を開いた。
「由梨、反吐が出るぜ。親父が勝手に決めた馬鹿げた話だ。俺はお前を認めたことなど一度もない」
彼はそのまま晴子の腰を引き寄せ、口元に嘲笑を浮かべる。
「鎌谷家が親父にどんな賄賂を握らせたのか知らんが、厚かましく縁談を迫った挙句、平の助手として会社に潜り込むとはな——権力にすがりつくような金目当ての女が、俺の婚約者だと?」
晴子は彼の胸に寄り添い、悪意に満ちた目を向けた。
「聞こえた? 圭也が妻に迎えるのは家柄が釣り合っている令嬢よ。あんたみたいなゴミじゃないわ」
この男女を前にして、私はふと滑稽に思えた。母が選びに選び抜いた完璧な後継者は、色香に迷って頭のネジが飛んだただの愚か者だったのだ。
肩に落ちた埃を払い、背筋を真っ直ぐに伸ばして、冷笑交じりに彼の視線を受け止める。
「圭也、自分を何様だと思っているの?」
その場が水を打ったように静まり返った。
私は一言一句、はっきりと声を響かせた。
「この婚約は、本日をもって私、由梨が一方的に破棄させてもらうわ。あなたのような人間のクズは、私には釣り合わない」
圭也の瞳孔が急激に収縮し、顔面が蒼白になった。
きびすを返す。気分はむしろ晴れやかだった——この縁談は、信人が母に丸一ヶ月も頭を下げ続けてようやく決まったもの。自分の可愛い息子が浜松家最大の金のなる木を自らの手で切り倒したと知れば、あの爺さんが圭也をただで済ませるはずがない。
「圭也! このまま帰すつもり?!」
晴子が彼の袖をきつく引っ張った。
「私の顔に泥を塗り、皆の前で婚約破棄するなんて、浜松家を完全に舐めきってるわ!」
「誰が行っていいと言った?!」
圭也の眼底に凶暴な光が渦巻き、怒号が飛んだ。
「おい、こいつを捕らえろ!」
エレベーターホールから四人の黒服のボディガードがなだれ込み、そのうちの二人が鉄の万力のように私の両腕を後ろ手に捻り上げ、彼の足元へと引きずり出した。
彼は私を見下ろした。まるで這いつくばる蟻でも見るかのように。
「晴子、今日は好きにしろ。何かあっても俺が揉み消してやる」
晴子の目に狂気が宿る。彼女は足を振り上げ、ガラスで切った私の足首の傷口に、鋭く尖ったヒールを正確に突き立てた。全体重をかけて踏みにじり、悪意たっぷりにぐりぐりと捻る。引き裂かれるような激痛に全身が痙攣し、溢れ出した鮮血が足元のグレーのカーペットを赤く染め上げていく。
「圭也……愛人に婚約者をいたぶらせたとなれば、お義父様が知った時、真っ先にあなたの皮を剥ぐでしょうね」
「まだ減らず口を叩くか!」
私の視線が彼の逆鱗に触れたらしく、圭也は突然夜叉のような形相になった。
「愛人愛人とよく吠える。お前のあの女狐のような母親こそ、愛人稼業がお似合いだろうが! どんな手を使って親父をたぶらかし、俺に結婚を強要したのか知らんが——今日お前が会社に来たのも、あのクズの差し金だろう!」
彼は蔑むように鼻で笑った。
「晴子、その口をズタズタに引き裂いてやれ」
「最初からそうするべきだったのよ!」
晴子は興奮気味に身をかがめ、私の髪を鷲掴みにして無理やり顔を上げさせると、もう片方の手を高く振り上げた——
散乱したバッグの中から、けたたましい着信音が鳴り響いた。
光る画面に表示された文字は『お母さん』。
晴子は目を輝かせ、スマートフォンをひったくってスピーカーボタンを押した。
「由梨、初日の出勤は慣れ——」
私はありったけの力を振り絞って絶叫した。
「お母さん! 助けて!!」
電話の向こうが、一瞬にして静まり返る。
晴子が得意げに高笑いした。
「クソババア、よく聞きなさい! あんたの娘は社長の婚約者気取りでふんぞり返ってたけど、初日から周囲の逆鱗に触れたのよ。自業自得ってやつね!」
受話器越しに響く母の声は、血さえも凍りつくほどに冷酷だった。
「もしこれ以上、私の娘の髪の毛一本にでも触れてみろ。明日の朝日が昇る前に、浜松家を完膚なきまでに破産させてやろう」
「あんたごときが? 大口叩いてんじゃないわよ! 死に損ないのババアは自分の心配でもしてなさい!」
晴子は横柄な態度で通話を切ると、スマートフォンを床に叩きつけ、ヒールで粉々に踏み砕いた。彼女は振り返り、再び私の髪をきつく掴むと、右手を大きく振りかぶって容赦なく平手打ちを食らわせた。
甲高い打撃音が、静まり返ったオフィスに連続して弾ける。圧倒的な力に視界が明滅し、頬が急速に赤く腫れ上がった。鋭いネイルが皮膚を切り裂き、口内に鉄の味が広がる。口角から滴り落ちた血が、床に散らばるガラスの破片を赤く染めた。
「お高く止まってんじゃないわよ! 何が婚約破棄よ!」
大柄なボディガード二人に床へと押さえつけられ、血と乱れた髪で視界が滲む。耳の奥では耳鳴りだけが響いていた。
「死ね、このクズ!」
目を血走らせた晴子が再び手を高く振り上げ、鋭く尖ったネイルが私の眼球めがけて突き下ろされる——
轟音が炸裂した。
壁一面を覆う防爆仕様のガラス張りが、瞬く間に無数の水晶の雨となって宙を舞う。狂暴な突風が室内に吹き込み、デスクの上の書類を粉微塵に吹き飛ばした。フロア全体に凄惨な悲鳴が響き渡り、晴子は強風に煽られて床に転がった。ボディガードたちも衝撃で思わず手を放す。
私は痛む目をどうにか見開き、吹き荒れる砂塵の向こうを見つめた——
数機のヘリコプターが、地上百メートルの窓外でホバリングしている。ローターが巻き起こす暴風は、オフィス全体を引き裂かんばかりの勢いだった。
キャビンのドアが勢いよく引き開けられる。
私の母、瑞子は漆黒のトレンチコートを翻し、吹き荒れる暴風に逆らいながら、床に散らばるガラスの破片を踏み砕いた。ボディガードの群れに従えられ、圧倒的な威圧感を放ちながらビルへと足を踏み入れる。
「誰だ——私の娘に手を出していいと、その薄汚い犬に教えたのは?!」
