第1章 無視された愛
東京のある総合病院。その正面玄関前の階段に、はるかはひとり佇んでいた。
手にした真新しい診断書を、指先が白くなるほど強く握りしめる。その視線は、夕焼けに燃える空の彼方へと向けられ、虚ろに揺れていた。
『膵臓癌、末期……余命、半年……』
呟いた唇が、微かに震える。
夫である松原一也に電話をかけようとして、指が止まった。何を、どう伝えればいいのか。
その時だった。ポケットに入れていたスマートフォンが、不意に震える。ディスプレイには『松原一也』の文字。はるかは一度、深く息を吸い込み、覚悟を決めて通話ボタンを押した。
「はるかか。悪い、今夜は設計プロジェクトの打ち合わせで遅くなる。先に飯、食っててくれ。待たなくていい」
電話口から聞こえてくるのは、いつもと変わらない平坦で、どこか他人行儀な夫の声だった。
はるかは何かを言おうと口を開きかけたが、告げようとした言葉は喉の奥で凍りついてしまう。
「……うん、わかった」
やっとの思いで絞り出した声は、風にかき消されそうなほどか細かった。
通話を終えると、ひらり、と一枚の桜の花びらが舞い落ち、診断書の上に淡い影を落とす。
はるかが顔を上げると、病院の敷地に植えられた桜の木が目に入った。夕陽が、その花びら一枚一枚を燃えるような赤色に染め上げていた。
***
四年前、はるかは十年近く焦がれ続けた高校の同級生、松原一也と結婚した。
あの頃の自分は、世界で一番幸せな女だと思い込んでいた。
一也が自分を選んだのは、ただ『妻』という役割をこなすのに、都合が良かったから。そんなことは、心のどこかでとっくに気づいていたけれど。
結婚してからの二年間、一也は礼儀正しく、けれどよそよそしかった。まるで感情のない同居人に対するように。
彼はもともと内向的で、感情を表に出すのが苦手な人だった。はるかは献身的に尽くすことで、少しずつ彼の心の氷を溶かしていった。
三年目を迎える頃、二人の関係はようやく温まり始めた。一也が時折、彼女に微笑みかけるようになり、稀にではあるが、彼の方から手を繋いでくれることさえあった。
結婚生活がようやく軌道に乗った。そう思った矢先、運命は残酷な追い打ちをかける。
膵臓癌、末期。医師は、彼女の命がもって半年だと告げた。
そして、奇しくも同じ日。
一也の高校時代の初恋の相手であり、伝説の美少女とまで謳われた『鈴木紗織』が、離婚してアメリカから帰国した。
その名前は、はるかが高校時代から幾度となく耳にしてきたもの。
誰もが噂した、光り輝くような少女。
一也にとっての高嶺の花。
そして――はるかの、腹違いの姉でもあった。
***
渋谷区の高級マンション。
はるかはローテーブルの前に座り込み、結婚してから綴ってきた日記帳を指先でそっと撫でていた。夕食には手をつけていない。空っぽの胃よりも、痛みと絶望が思考も食欲もすべてを奪っていた。
いつの間にかローテーブルに突っ伏して眠ってしまっていたらしい。日記帳は、最後のページが開かれたままになっている。
午前一時。玄関のドアの鍵が回る音で、はっと目を覚ます。
忍ばせるような足音でリビングへ入ってきた一也は、室内の明かりと、ローテーブルの前にいるはるかの姿を認め、わずかに眉をひそめた。
「どうしてまだ起きているんだ?」
彼はブリーフケースをソファに置くと、ジャケットを脱ぎ、無造作に腕にかける。
はるかは凝り固まった首をさすり、無理に笑顔を作った。
「あなたを待ってたの」
立ち上がって一也からジャケットを受け取った、その瞬間。
ふわりと、知らない香水の匂いがした。高級な白檀に、甘いクチナシを重ねたような香り。それは、一也が普段つけているものとは明らかに違っていた。
はるかの指先が、ぴくりと震える。
夫の目を見つめるが、一也はさっと視線を逸らし、バスルームへと向かった。
「シャワーを浴びてくる」
ジャケットを手にしたまま、はるかはその場に立ち尽くす。心臓を直接掴まれて、握り潰されるような痛みだった。
一也が、鈴木紗織に会ってきたのだと直感した。
けれど、はるかは何も聞けなかった。ただ黙ってジャケットをハンガーにかけると、寝室へと引き返した。
***
二ヶ月前、一也は胃の不調で入院し、はるかは一週間、つきっきりで看病した。
「専門の看護師を頼めばいい。君も休まないと」
そう提案した一也に、はるかはきっぱりと首を横に振った。
「あなたのお世話をするのは、妻である私の役目ですから」
それ以来、一也のために胃に優しい和食の朝食と特製のお弁当を作るのが、はるかの日課になった。毎朝早くに起き、胃に負担をかけないお粥や蒸し魚、新鮮な野菜を用意する。いくつものレシピを研究し、季節に合わせて食材も変えた。すべては、一也の胃の痛みが再発しないように、と願ってのことだった。
まさに今日の朝も、一也は慌ただしく家を出る際に、はるかが心を込めて準備した弁当を持って行ったのだ。
その数時間後、自分の人生が根底から覆されることになるなんて、この時の彼女は知る由もなかった。
***
昼時。はるかは新しく作った胃に優しい昼食を手に、一也の建築設計事務所を訪れた。
彼を驚かせたかったし、病院で予備的な検査結果を聞いたばかりの心には、少しでも慰めが必要だった。
ガラス張りのドアの向こう、応接スペースで一也が楽しげに談笑しているのが見えた。相手は、優雅な雰囲気の女性。
――鈴木紗織。はるか女の、姉。
はるかの心をさらに打ち砕いたのは、鈴木紗織が手にしているのが、今朝自分が作ったお弁当箱だったこと。そして、彼女が優雅な手つきで、中に入っている焼き魚を口に運んでいる光景だった。
はるかはその場に凍りついた。手にしていた新しいお弁当の重みが、急に増したように感じられた。
その時、鈴木紗織がこちらに気づき、悪びれもせずに微笑みながら手招きする。
「あなたがはるかさん?一也くんから、お話はよく聞いてるわ。このお弁当、あなたが作ったのね。すごく美味しい。盛り付けも綺麗」
はるかの顔に、こわばった笑みが張り付く。
彼女の視線は、鈴木紗織から一也へと移る。彼はばつが悪そうに立ち上がると、どこか落ち着きなく視線を泳がせた。
「……近くまで来たから、お昼を届けようと思ったんだけど。その必要は、なかったみたいね」
はるかは静かに言った。その声に感情の波はなかったが、胸の中は鋭い刃物で切り刻まれるように痛んでいた。
はるかは事務所に背を向け、踵を返す。
家路につく電車の中、窓の外を猛スピードで過ぎ去っていく景色を眺めながら、その瞳には次第に、冷たく硬質な光が宿り始めていた。
『もし、本当に私の命が残り半年だというのなら……』
はるかは静かに、固く誓った。
『必ず、あなたに後悔させてあげる』









