第2章 触れられない距離

はるかは窓辺に立ち、滲む東京の夜景をただ見つめていた。

彼女の指は、無意識に腹部をなぞる。そこに巣食う痛みは鋭利な刃物のようだ。刻一刻と、命の終わりが近づいていることを突きつけてくる。

「一也が、私を裏切るはずがない……」

はるかは心の中で繰り返し、自分に言い聞かせる。

「一也はただ……忙しすぎるだけ」

部屋に戻ったはるかは、ようやく我に返った。まだ大丈夫。まだ、最悪の事態にはなっていない。そう必死に自分へと言い聞かせた。

けれど、記憶の片隅にこびりついた微かな花の香りが、見えない毒蛇のように心臓に絡みついて息を詰まらせる。

はるかは振り返り、丹念に整えられた和室を見渡した。深い色の畳、凛とした佇まいの障子、壁には彼女が自ら描いた墨絵が掛かっている。この四年、良い妻であろうと努めてきた。優しさと気遣いを糸にして、完璧な家庭という虚像を織り上げてきた。

ふと、自嘲の笑みが漏れる。どうやら私は、良い妻を演じすぎることに慣れてしまったらしい。

ガチャリ、と鍵の回る音。

夫の一也が帰ってきたのだ。

「はるか。ただいま」

彼の声には、珍しく優しさが滲んでいた。

「プレゼントがあるんだ」

振り返ったはるかの目に、一也が持つ精巧な青いジュエリーボックスが映る。スーツの上着には皺が寄り、ネクタイは緩められているが、その瞳には普段と違う光が宿っていた。

「今朝は、悪かった」

一也は箱を開けてみせる。中には桜をかたどったピンクダイヤモンドのイヤリングが収まり、照明の下で妖しいまでに輝いていた。

「これを見たら、君を思い出して」

はるかはそれを受け取り、豪奢な輝きを放つ石に指先でそっと触れた。

はるかが好むのは、もっと素朴な装飾品だ。天然の素材でできた、控えめで品のあるもの。こんな華美な宝石ではない。

それでも彼女は微笑んでみせた。

「ありがとう。とても綺麗ね」

一也はまるで任務を終えたかのように、ほっとした顔になる。そして彼女の額に軽く口づけを落とした。

「シャワー、浴びてくる」

夫が浴室のドアの向こうへ消えるのを、はるかはその場に立ち尽くして見送った。

高価な贈り物であることはわかる。けれど今のはるかの目には、これが夫の罪悪感の象徴であり、紗織との密やかな関係を贖うための印にしか見えなかった。

夜が更け、はるかはベッドの中で眠ったふりをしていた。

背後から、一也がそっと抱き寄せてくる。彼の呼吸は穏やかで温かい。

はるかは、夫から漂う微かなアフターシェーブローションの香りに、あの梔子の香りが混じっていることに気づいてしまう。その香りが、鋭い針となって心臓を貫いた。

不意に、腹の奥が灼けるように痛んだ。

はるかは唇を固く噛みしめ、漏れそうになる呻きを必死に飲み込む。彼の腕の中で気づかれぬよう、そっと膵臓のあたりを押さえ、身を裂くような痛みに耐えた。

痛みをやり過ごそうと窓の外に目をやると、意識は自然と遠い過去へと遡っていく。

両親が離婚する前から、父には外に女がいて、娘までいた。離婚が成立すると、父はすぐにそのアメリカ人の女性と再婚した。

そして、その娘こそが――鈴木紗織だった。

母は女手ひとつではるかを育てた。だから、ずっと頑張ってきた。

高校時代のはるかは、いつも一人で本を読んでいるような物静かな少女だった。クラスの女子たちはそんな彼女を仲間外れにし、嘲笑った。父親の愛を「ハーフの姉」に奪われたのだと。

「ねぇ、上田さん。あんたのお父さん、外国人の女のためにあんたのお母さんを捨てたんだって?」

「ハーフのお姉さんって、すっごい美人なんでしょ?あんたみたいな地味なのと違ってさ」

そんな時、いつもはるかを庇ってくれたのが一也だった。

「いい加減にしろよ!これ以上言うなら先生に言うからな」

はるかの前に立ちはだかる彼の眼差しは、いつも真っ直ぐで揺るぎなかった。

当時の一也は、成績優秀でバスケ部のエース、おまけにギターまで弾ける学校のスターだった。彼の庇護は、はるかにかつてない安心感を与えてくれた。

一也に追いつきたくて、はるかは必死に勉強した。そして、一也と共にT大の建築学科に合格した。

これが運命なのだと、このまま二人でずっと一也緒にいられるのだと、信じて疑わなかった。

でも、間違っていた。

彼女は、一歩遅かったのだ。

一也の心には、とうに「光」が存在していた。――鈴木紗織という光が。

はるかが知らなかったこと。それは、自分が教室の隅でいじめに耐えていたその頃、すでに一也と鈴木紗織は出会っていたという事実。高校時代に短期間だけ日本に戻っていた鈴木紗織は、誰もが見惚れるほど輝いていて、男子生徒たちの憧れの的だった。

さらに皮肉なことに、はるかがその事実――夫と、自分の異母姉が、かつて忘れられない恋をしていたという事実を知ったのは、結婚してからのことだった。

そして今、鈴木紗織が離婚して日本へ戻ってきたことで、時の中に埋もれていたはずの感情が、再び燃え上がり始めていた。

翌日、はるかは鎌倉に住む母を訪ねた。

「お母さん、好きな和菓子、持ってきたわ」

はるかが差し出した木箱の中には、季節限定の桜餡の和菓子が美しく並んでいる。

母の質素な和室で、二人はお茶を飲みながら他愛ない話をした。母の髪には白いものが目立つようになったが、その眼差しは昔と変わらず澄んでいた。

「はるか、なんだか顔色が悪いわよ」

母が心配そうに娘の顔を覗き込む。

「仕事、大変なの?」

はるかはそっと首を横に振ると、安心させるように微笑んだ。

「最近、挿絵の仕事をいくつか徹夜で仕上げただけ。大したことないわ」

病気のことも、結婚生活がうまくいっていないことも、母にだけは告げられなかった。

夫に裏切られ、女手ひとつで自分を育ててくれた母に、これ以上心労をかけたくなかった。

別れ際、母は玄関まで見送ってくれた。

「身体、大事にするのよ。無理しちゃだめだからね」

はるかは頷き、背を向けた。目尻に涙が滲む。

これが、母に会う最後になるかもしれない。そう思うと、さよならの言葉さえ喉につかえて出てこなかった。

東京へ戻る電車の中、はるかは窓の外を猛スピードで過ぎ去っていく景色を、ただぼんやりと眺めていた。

医師の言葉が蘇る。

『膵臓癌の末期です。余命は、持って半年でしょう……』

六ヶ月。百八十日。四千三百二十時間。

それが、彼女に残された時間のすべてだった。

電車が駅に着き、はるかは疲れた体を引きずってマンションへと歩く。春の日差しが桜並木に降り注ぎ、薄紅色の花びらが風に舞っていた。

マンションの敷地に入った、その時。

はるかは、胸が張り裂けるような光景を目にしてしまう。

一也と鈴木紗織が、桜の木の下で親密そうに語らっていた。

一也の顔には、はるかが一也度も見たことのない柔らかな笑みが浮かんでいた。慈しむような、焦がれるような、そんな眼差しだった。

はるかにすら、あんな顔を見せたことなんてないのに。

その時、一匹の薄汚れた犬が茂みから飛び出し、鈴木紗織が驚いて甲高い声を上げた。彼女はとっさに一也の胸に顔を埋める。

一也はすぐさま手を伸ばして彼女を支え、庇うようにその華奢な身体を抱き寄せた。

その瞬間、彼一也は顔を上げ、桜の木の下で静かに二人を見つめているはるかの存在に気がついた。

空気が、凍る。

はるかは、叫ばなかった。泣きもしなかった。怒りさえ見せなかった。

彼女はただ、怯えたように佇む子犬の方へゆっくりと歩み寄ると、その場にしゃがみ込み、汚れた頭を優しく撫でた。

子犬は警戒しながらも彼女を見つめ、逃げようとはしない。右耳は切れ、毛はごわごわで痩せこけているけれど、その瞳は濡れて輝いていた。

はるかはその犬を抱き上げると、一也の方を向き、静かだが、けれどはっきりとした声で言った。

「この子、飼ってもいい?」

一也は呆然としていた。妻がこんな反応を示すとは、夢にも思わなかったのだろう。鈴木紗織は気まずそうに一也の腕から離れ、気まずげに服の乱れを直している。

「……ああ、いいけど」

一也は、まるで理解できないものを見るような目ではるかを見つめた。

「でも、汚れてるみたいだし、一度、動物病院で診てもらった方がいい」

はるかは頷くと、鈴木紗織の存在などまるで無いかのように、子犬を抱いたまま道端に停まっていたタクシーへと真っ直ぐに向かった。

「じゃあ、今から行きましょう」

東京のある動物医療センターで、獣医師が犬の状態を注意深く診ていた。

「右耳に裂傷、左前脚に古い怪我の跡があります。虐待されていたのかもしれませんね」

医師は眼鏡の位置を直した。

「ただ、性格は穏やかなようです。少し栄養失調気味ですが……念のため数日入院させて、感染症の有無を調べましょう」

はるかは子犬の頭を優しく撫でた。

「この子の名前、『こまめ』にする」

「こまめ?」

一也が訝しげに妻を見る。

「ええ、こまめ」

はるかは微笑んだ。

「この子は強い子だから。新しい生を与えてあげたいの」

医師の勧めに従い、こまめを数日入院させることにした。

引き取りの書類にサインをするはるかの手は微かに震えていたが、その筆跡はどこまでも丁寧だった。

病院を出ると、はるかと一也は東京の街を並んで歩いた。二人の間の空気は、深く澱んでいた。

一也は何度か口を開きかけたが、結局、何も言えなかった。

夜、はるかは畳の上に正座していた。薄手の木綿の寝間着を身にまとい、洗いっぱなしの髪はまだ少し湿っている。

一也はネクタイを締め直し、これから残業だと会社へ戻る準備をしていた。

不意に、はるかが口を開いた。声はか細いのに、決して揺るがなかった。

「『私だけを生涯愛し、守り抜くと誓います』……結婚式の誓いの言葉よ。あれは、今も有効なの?」

ネクタイを直す一也の手が、止まる。

彼ははるかに背を向けたまま、長い間、黙り込んでいた。

「……もちろんだ」

やがて返ってきた声は、ひどく平坦だった。

「それは、俺の責任だ」

責任。

……愛でも、誓いでもなく。

ただ、責任。

はるかは目を閉じ、心臓を抉るような痛みに耐えた。

再び目を開けた時、一也はすでに彼女の前に立ち、その額にそっと唇を押し当てていた。

「おやすみ。なるべく早く帰る」

ドアが閉まり、灯りが消える。

暗闇の中に、またあの梔子の香りが微かに漂っていた。

深夜、月の光が水のように寝室へ差し込んでいる。

はるかは一也の腕の中からそっと抜け出すと、ベッドの端に腰掛け、夫の寝顔をじっと見つめた。月光に照らされた彼の端正な横顔は、彫りが深く見える。長い睫毛が落とす影、穏やかで安らかな寝息。

彼女は指で、彼の眉を、鼻筋を、唇の形を、そっと辿る。

この顔を、永遠に記憶に刻みつけるかのように。

一也が、公然と家庭を壊すような真似はしないだろうとはるかは確信していた。彼は世間体を気にしすぎる男だから。完璧な家庭という見せかけを、何よりも重んじるから。

だが、一也の心がもはやこの家にはないことも、同じくらい確信していた。

はるかは抜き足差し足で机に向かい、あの日記帳を開いた。

紙の微かな匂い。月明かりの下、ページが柔らかな光を帯びている。

はるかはペンを取り、インクを走らせた。

『桜が散る頃、あなたはどんな気持ちで、今の私を思い出すのでしょう?』

ペンを止め、そっと腹部に手を当てる。微かな痛み。それは死への序曲であり、命の秒読み。

日記の最後に、はるかはこう書き添えた。

『私の時間は、もうあまり残されていません』

『一也、私が死んだら、あなたは後悔してくれるのでしょうか。』

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