第3章 裏切りの恋人

はるかは、東京の総合病院のガラス張りの自動ドアを抜けた。

冬の陽光が青白い顔に降り注ぐ。けれど、その光に温もりはなかった。

彼女はエントランス前の階段に立ち、行き交う患者や医療スタッフの群れをぼんやりと眺める。ふと、馬鹿げた問いが胸をよぎった。

「私が死んだら、一也はきっと、姉さんと再婚するんだろうな」

その想像は鋭利な刃物となって、ささくれ立った心を容赦なく抉る。唇の端に自嘲の笑みが浮かぶが、その瞳は恐ろしいほどに冷え切っていた。

「鈴木紗織はアメリカで離婚したばかり。彼は妻を亡くす。……おあつらえむきに、結ばれるってわけね」

はるかはぽつりと呟き、指先で検査報告書の入った封筒を無意識に握りしめる。

先ほどの医師の言葉が、耳の奥でまだ反響していた。

『膵臓はすでに機能を失い、肝臓への転移も進んでいます……持って、三ヶ月かと』

深く息を吸い込むと、瞳に宿っていたか細い光が、一瞬にして昏い決意の色に変わる。

はるかは報告書をハンドバッグの奥に押し込み、流しのタクシーを一台、こともなげに停めた。

「もう、今までみたいに黙って耐えるのはやめよう」

心の中で、自分に言い聞かせる。

「これは私の人生の、最後の時間。結末くらい、自分で決めなくちゃ」

十歳の誕生日の記憶は、今も疼く古い傷跡のようだ。

はるかと母は、銀座の高級料亭の片隅の席にいた。目の前には、ささやかな季節の和食が数品だけ。母がなけなしのお金をはたいて、娘の誕生日に一度くらいはと、無理をして予約してくれた店だった。

「はるか、この蟹真薯、美味しい?」

母が優しく尋ねる。その目には隠しきれない疲労が滲んでいるのに、無理に笑みを作っていた。

はるかが返事をするより早く、店の奥から華やいだ笑い声が聞こえてきた。家族三人が杯を交わし、何かを祝っている。綺麗な着物に洋風の髪飾りをつけた少女が、照明の下で宝石みたいに輝いていた。

その少女の隣にいる男性が誰なのか、はるかには一目でわかった。

自分の、父親だった。

腹違いの姉の誕生日を祝い、はるかが決して向けられたことのない、幸せそうな顔で笑っている。

「ご挨拶、行く?」

母が静かに訊ねた。声に、恨みの色はない。

「どうしたって、あなたの父親なんだから」

父が、鈴木紗織の額にキスをする。親密に寄り添う二人を見て、息が詰まった。はるかは俯き、意地っ張りに首を横に振った。

「 パパは、ただ私を愛していないだけ」

幼いはるかは、その残酷な事実をすでに悟っていた。

「新しい家族を選んだんだもの」

その瞬間、はるかは理解したのだ。鈴木紗織は、自分が渇望してやまないすべてを、いとも簡単に手にしているのだと。父の愛も、何もかも。

その認識は呪いのように彼女の心に根を張り、成長と共に深く、深く、蝕んでいった。

今、はるかは渋谷のタワーマンションの窓辺に座り、きらめく東京の夜景を見下ろしている。その指先は、ありったけの絶望と怒りを書きつけた日記帳の表紙を、そっと撫でていた。

ガチャリ、と玄関のドアが開く。夫の一也が帰ってきた。

彼のスーツから、ふわりと梔子の甘い香りがした。姉の愛用している香水と同じ香りだ。

はるかは気づかないふりをして、完璧な笑顔で彼を迎える。

「お仕事、お疲れ様」

彼の鞄を受け取りながら、柔らかな声で言った。

「あなたの好きなビーフシチュー、作っておいたわ」

一也は疲れたように頷くだけで、妻の目に一瞬よぎった痛みの色には気づかない。

リビングのソファに腰掛けた彼は、何気なくスマホをスワイプする。はるかはその後ろ姿の向こう、画面を盗み見た。紗織が更新したばかりのインスタ。東京の夜景をバックにした写真の中に、一也のものらしきシルエットがぼんやりと写り込んでいる。

はるかは黙ってその投稿に「いいね」を押し、静かにキッチンへと踵を返した。

病がわかってからイラストレーターの仕事は辞めた。今は、愛犬のこまめの世話をしながら、途絶えていた日記を再びつけ始めている。不眠。悪化する腹痛。消えていく食欲。体調は日に日に悪くなる一方だ。それでも、表向きの穏やかさを保つため、週に一度の茶道教室だけは続けていた。

足元に、こまめが丸くなっている。彼女の指を、心配そうにぺろりと舐めた。拾ってきた頃は怯えてばかりだったこの柴犬は、今では彼女の最も忠実な伴侶だった。

「こまめ」

はるかは囁いた。

「お母さんに会いに行こう。……これが、最後になるかもしれないから」

郊外の町にある実家は、静かで穏やかだった。母が庭で盆栽の手入れをしている。

「あら、いらっしゃい」

母は顔を上げて微笑んだ。

「ちょうど新しいお茶を淹れたところよ」

短い会話の後、母がお茶の準備をしに席を立った隙に、はるかはそっと銀行のカードと通帳のほとんどを、古いアルバムの間に差し込んだ。母は、娘からのあからさまな援助など決して受け取らないだろう。これで少しでも、穏やかに暮らしてほしい。その一心だった。

「寒くなるから、暖かくして、体に気をつけるのよ」

別れ際、母が心配そうに言った。

はるかは頷き、母の華奢な体を長く抱きしめた。

本当のことを告げたい衝動が喉までこみ上げる。けれど、それをぐっと飲み込んだ。母はもう、十分に多くのことを耐えてきたのだ。これ以上、重荷を背負わせるわけにはいかない。

去り際に、はるかは質素な実家を振り返った。

母は父を愛してはいなかったし、おそらく、自分も十分に愛されてはいなかったのだろう。けれど母は、妻として、母親としての責任を果たしきった。父の会社が倒産した後、昔好きだったという小学校の先生と再婚し、弟が生まれ、慎ましくも幸せな生活を手に入れた。

「少なくとも、誰かは幸せになれたんだわ」

はるかは思う。

「それだけで、もう十分」

その夜、はるかは腕によりをかけて和食の膳を整えた。珍しく、一也は残業もせずに早く帰宅し、食卓についてくれた。

「どうしたんだ、今日は。すごいご馳走じゃないか」

一也が少し驚いたように言う。

「ううん、別に。なんとなく、あなたとゆっくりご飯が食べたくなって」

はるかは微笑んだ。

食卓で、はるかはほとんど箸をつけられなかった。不意に、腹の底からせり上がってくるような激痛が走る。彼女はこまめに水を追加するふりをして、何食わぬ顔で席を立った。

キッチンの隅、パントリーの陰で身をかがめると、ごほ、と熱い塊が込み上げた。一口、鮮血を吐き出す。素早くハンカチで口元を拭い、証拠が残らないよう、それをきつく握りしめてポケットにしまった。

異変を察したのか、こまめが不安そうにクゥンと鳴き、鼻先ではるかの手をそっと押す。まるで彼女を慰めるかのように。

「大丈夫よ、こまめ」

はるかは涙をこらえ、その頭を撫でた。

「まだ、時間はあるから」

「……はるか?戻っておいで」

突然、リビングの入り口に一也が立っていた。平坦な声だった。

「せっかく一緒にいるんだから」

振り返ったはるかの顔は、もういつもの穏やかな表情に戻っていた。彼女は一也の後に続いて食卓に戻り、まるで何もなかったかのように振る舞った。

食後、一也が珍しく提案を持ちかけてきた。

「来月、沖縄に行こうか」

一也は言った。

「君がずっと行きたがってた、遅めのハネムーンだ」

はるかは驚いて顔を上げた。自分の耳が信じられない。沖縄は彼女が夢にまで見た場所で、何度もハネムーンに行こうと提案しては、一也に仕事が忙しいと断られ続けてきたのだ。

「……ほんとうに?」

それが幻ではないかと、恐る恐る尋ねる。

「ああ。仕事の段取りはつけた。一週間、休みが取れる」

一也は頷いた。その目に、一瞬だけ罪悪感のような色が宿る。

はるかの心に、一筋の温かい光が差し込んだ、その矢先だった。

「そうだ。来週の水曜、銀座で会食があるんだが、一緒に来てくれないか」

はるかの笑顔が、ぴしりと凍りついた。

そこは、十歳の誕生日に父と紗織を見た、因縁の料亭。そして、一也が紗織を頻繁に連れて行く店でもあった。

「ええ、いいわ」

はるかは、完璧な淑女のように答えた。

一也はどこかほっとしたように頷き、湯呑みのお茶をすする。はるかは彼の横顔を見つめながら、心の内で、別の決断を下していた。

「……やっぱりやめるわ」

はるかは唐突に言った。

「その会食、行くのやめる」

一也の手が、わずかに止まる。湯呑みの中の茶が、小さく波立った。

「そうか。……それは、残念だな」

一也の声は、どこか不自然に上ずっていた。

はるかは微笑みながら頷く。心の中には、すでにある企みが芽吹いていた。

一也が紗織を連れて行くであろうその宴席に、自分も乗り込む。二人の裏切りをこの目で見届け、そして――。

窓の外から、遠くの花火の音が聞こえてきた。冬の澄んだ夜空に、大輪の花が咲いている。はるかは窓辺に歩み寄り、束の間で眩い光を見上げた。

「私の人生たい」

彼女は思う。

「短いけれど、誰の記憶にも残るくらい、鮮やかに咲き誇ってあげる」

こまめが、そっと彼女の足元に寄り添う。主の決意を感じ取っているかのようだった。

はるかは身をかがめてその頭を撫で、耳元でそっと囁いた。

「こまめ。これから、お芝居を始めるのよ」

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