第4章 遅れてきた深情

柔らかな照明が、はるかの蒼白い顔を照らし出していた。

淡い水色の着物を纏った彼女は、無意識に帯の細やかな刺繍を指でなぞる。庭の石灯籠が夜の闇にぼんやりとした光を投げかけ、その孤独な輪郭を浮かび上がらせていた。

「……来るべきでは、なかった」

はるかはか細い声で呟いた。

目に映るすべてが、あまりにも見慣れた光景だったからだ。十歳の誕生日、彼女はまさにこの料亭で、父の心の中での自分の立ち位置を、初めてはっきりと悟った。

そして今夜、彼女はここで、また別の真実を目撃することになる。

はるかは深く息を吸い、一歩、また一歩と慎重に足を進める。身体が鉛のように重かった。

障子の隙間から、夫である一也の姿が見えた。

非の打ち所なく仕立てられたダークグレーのスーツに身を包み、宴の中心に立つその右手には、シャンパングラスが優雅に掲げられている。そして彼の左腕には、燃え盛る炎のような赤いイブニングドレスを纏った女性――鈴木紗織が、ぴったりと寄り添っていた。

鈴木紗織のドレスは、黒や白、グレーを基調としたスーツ姿の男女の中で、ひときわ鮮烈な光を放っている。その笑みは太陽のように明るく、時折、一也の耳元へ顔を寄せて何かを囁き、彼の口元を微かに綻ばせていた。

お似合いの二人だ、とはるかは思う。

まるで運命に定められた番のように。

「松原さん、ご謙遜を!あなたの新しいデザインは、間違いなく日本の建築界を変えますよ」

財界の重鎮らしき男が、声を張り上げて称賛した。

鈴木紗織は誇らしげに、一也の腕をさらに強く抱き寄せる。

「一也が日本の建築界の伝説になるって、わたくし、ずっと信じておりましたの」

一也はわずかに俯き、紗織へと優しい眼差しを向けた。

「君の支えがなかったら、ここまで来られなかった」

その言葉は、鋭利な刃となってはるかの心を突き刺した。

胃の腑を抉られるような激痛が走り、思わずその場で蹲りそうになる。脳裏に、医師の警告が冷たく響いた。

『感情の起伏は病状を悪化させます。普段から、できるだけ心を平穏に保つように……』

けれど、今の彼女に平静を保てというのは、あまりにも酷な要求だった。

「松原さん」年配の建築家が、不意に庭の方を指さした。「あちらにいる方は……?」

一也は指さされた方へ視線を送り、その瞬間、さっと顔色を変えた。

彼の目は大きく見開かれ、唇は微かに震え、手にしたシャンパングラスが危うく滑り落ちそうになる。

「はるか……」

一也は低く呟くと、慌ててグラスをテーブルに置き、人混みをかき分けてこちらへ向かおうとした。

はるかは、一也の視線を真っ直ぐに受け止め、静かに首を横に振る。そして、その口元に薄い微笑みを浮かべた。

それは恐ろしいほど穏やかな笑みで、まるで自分はただの傍観者で、この裏切りの渦中にいる当事者ではないとでも言うようだった。

一也が庭へたどり着くよりも早く、はるかは静かに背を向け、その場を立ち去っていた。

渋谷区のマンションへ戻った頃には、はるかの両足はもはや自分の身体を支えきれなくなっていた。彼女はまっすぐ仕事部屋へ向かうと、震える指でドアを閉める。

「クゥン……」

飼い犬のこまめが、主人のただならぬ様子を敏感に察し、心配そうにドアの外で鼻を鳴らした。

全身を貫くような痛みに、呼吸が浅く速くなる。脳裏に、いくつもの光景がめまぐるしく駆け巡った。鈴木紗織の誕生日を祝う父の笑顔。睦まじく寄り添う一也と紗織の姿。そして、その隅でぽつんと佇む、幼い自分の孤独な影。

長年張り詰めていた自制心の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。

はるかは机の上の画材を、荒々しく床へ薙ぎ払う。絵の具の瓶が叩きつけられ、青と赤の顔料が、まるで血糊のように広がった。

高価な京焼の茶器も、ためらいなく床へ叩きつける。砕け散る音の一つひとつが、彼女の心の叫びに呼応するようだった。

涙で滲む視界の中、彼女は叫んだ。

「もう、いや……っ!」

ふと、作業台に置かれたカッターナイフが目に入った。鋭い刃が、彼女を誘うかのように冷たい光を放っている。はるかは震える手でそれを掴むと、ためらうことなく自身の手首へと押し当てた。

「こんな人生に、何の意味があるの……」

呟きと共に、涙が一滴、刃の上へと落ちた。

その時だった。

こまめが、ドアに体当たりするようにして部屋へ飛び込み、甲高い声で鋭く一声吠えた。

そのままはるかの足元へ駆け寄ると、濡れた鼻先を、カッターを持つ彼女の手に何度も押し付け、温かい舌でその冷たい指先を懸命に舐め上げる。

はっとして、はるかの手からカッターナイフが滑り落ちた。

見つめ返してくるこまめの瞳は、心配と愛情に満ちていて、その奥にある怯えまでが、痛いほど伝わってくる。

「こまめ……」

声が詰まり、はるかはその柔らかな毛並みに顔を埋めた。涙が、赤褐色の毛を濡らしていく。

「ごめんね……ごめんね……」

最後の命綱にすがるように、はるかはこまめを強く抱きしめる。荒れ狂う感情が、まるで引き潮のように、ゆっくりと静まっていった。

「あなただけは、本当に私のことを想ってくれるのね……?」

はるかが囁くと、こまめは応えるように、彼女の頬をぺろりと舐めた。

一也が帰宅したのは、日付も変わろうかという時間だった。そっとドアを開けると、リビングの明かりがまだ点いていることに、彼は少し驚いた。

はるかは畳の上に正座していた。目の前には、精巧な茶器が一式、静かに整えられている。まるで、先ほどの嵐などなかったかのように。ただ、わずかに乱れた髪と、泣き腫らしたように微かに赤い目元だけが、何かがあったことを物語っていた。

「お帰りなさいませ」

はるかは穏やかに言った。その声は、春の夜風のように優しい。

一也は和室の入り口に立ち尽くし、言葉に詰まる。銀座の料亭での一件を、どう説明すればいいのか。言葉が喉につかえて、出てこない。

「はるか、今夜のことは……」

「ええ、分かっておりますわ」

はるかは彼の言葉を遮り、慈しむような微笑みを浮かべた。

「紗織さんはアメリカからお帰りになったばかり。日本のことまだ何も知らないでしょうから、一也が同級生として、力になって差し上げたいのでしょう?」

一也は呆然とした。はるかがそこまで理解してくれているとは、思ってもいなかったからだ。

何かを答えようと口を開きかけたが、はるかが差し出した湯呑みに、その言葉を遮られた。

「どうぞ」はるかは湯呑みを彼の方へそっと押しやる。「新しく取り寄せた煎茶です。胃に優しいと聞きましたから」

一也は湯呑みを受け取る。温かい感触が指先に伝わった。彼ははるかの穏やかな顔を見つめ、言いようのない感情が胸に込み上げてくる。

「はるか……」

一也は最後まで言わず、湯呑みを置くとはるかの隣に正座し、不意に彼女の華奢な身体を強く抱きしめた。

「……痩せたな」

労わるような声が、彼女の耳元で囁かれる。

はるかは、彼の腕の中で一瞬だけ身を硬くした。

彼のスーツから微かに漂う、梔子の香水の匂い。それが、ツンと鼻をついた。

胃の腑が逆流するような不快感をぐっとこらえ、顔には完璧な微笑みを貼り付ける。そして、この四年間の毎日のように、そっと一也の背中に腕を回した。

「最近、少し仕事が立て込んでいて。食が細くなっているのかもしれません」

自分でも驚くほど、平坦な声が出た。

翌朝。陽光が、薄いレースのカーテンを透かして寝室に差し込んでいる。はるかは早くに目を覚まし、一也の胃を気遣って、彼が一番好きな山芋粥を用意した。

「行ってきます」

一也が玄関に立ち、鞄を手に取る。

「お待ちになって」はるかは彼を呼び止めた。「ネクタイ、締めていらっしゃいませんよ」

一也は自分の胸元に目を落とし、緩んだネクタイを見て照れくさそうに笑った。

「締めてくれるか?」

はるかは頷くと、一也の正面に歩み寄り、手慣れた仕草でネクタイを整え始める。彼女の指は布地の間を滑らかに動き、その所作は優雅で、正確だった。

最後の結び目を締めようとした、その瞬間。

一也が、突然彼女を抱き寄せ、その唇を奪った。

それは不意打ちの、そして、これまでにない激しさと渇望を帯びた口づけだった。一也の腕ははるかの細い腰に固く回され、まるで彼女を自分の身体に溶かしてしまおうとするかのようだ。貪るように唇を塞ぎ、軽く下唇を噛んで、強引に舌を滑り込ませてくる。

はるかは驚いて目を見開いた。この、知らない男のような熱烈さに。

一也が、こんな風にキスをしたことなど一度もなかった。新婚の夜ですら、彼の口づけはどこか抑制的で、優しさに満ちていたというのに。

ようやく唇が離れると、一也の目元が不自然に赤く潤んでいた。その指が、そっとはるかの頬を撫で、輪郭をなぞる。まるで彼女の姿を記憶に焼き付けるかのように。

「愛してる」

彼は、低く言った。

その言葉が、四年に及ぶ結婚生活で彼の口から紡がれたのは、片手で数えるほどしかなかった。

はるかの心臓が、一瞬だけ時を止める。

けれど、彼女はその告白に何も答えず、ただ静かに微笑んで頷くだけだった。

一也は一也の額にもう一度軽くキスをすると、鞄を手に取り、マンションを出ていく。はるかは玄関に立ち、微笑みながらお辞儀をして、彼を見送った。

エレベーターのドアが閉まるその瞬間まで、彼女の顔から微笑みが消えることはなかった。

ぱたり、とドアが閉まる。

はるかは壁に背を預け、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。無意識に指で、自分の唇をなぞる。その瞳には、あまりにも複雑な感情が揺らめいていた。

「……どうして、今になって」

か細い呟きが、静かな玄関に落ちる。

こまめが、いつの間にか足元に寄り添い、その頭を彼女のふくらはぎにそっと擦り付けてきた。まるで、慰めるかのように。はるかはしゃがみ込むと、こまめを抱きしめ、その温かい毛並みに顔を埋めた。

「こまめ」

はるかは囁く。ほとんど吐息のような、か細い声で。

「私の時間、もうあまり残されていないの」

窓の外で、一枚の桜の花びらが、風に攫われるように舞い上がり、あっという間に視界から消えた。

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