第2章
沈川澪は反射的に藤原司を押しのけ、掠れた声で言った。
「お弁当、落としちゃったし……私、帰る」
押された藤原司は一瞬呆け、すぐに顔色を沈めた。眉をひそめて責める。
「沈川澪。何のつもりだ、また機嫌損ねたのか?」
朝倉月乃が彼の袖を引く。
「司、澪がせっかく持ってきてくれたのに、そんな言い方しないで。もう遅いし、みんなで一緒に帰ろう?」
藤原司はそれ以上言わなかった。
結婚して三年。藤原司が、女の前でこんなに従順になることを沈川澪は知らなかった。
沈川澪は一秒だってここにいたくなくて、まっすぐ出口へ向かう。
だが藤原司は、彼女が脚を引きずる姿にさすがに目を逸らせず、追いつくと腰に腕を回して抱き上げた。そのままエレベーターへ向かう。朝倉月乃も後ろからついてくる。
沈川澪が身をよじると、藤原司はさらに強く抱き締め、車へ運んで後部座席に座らせた。
朝倉月乃は助手席に乗り込み、振り返ってやさしく言う。
「気にしないでね。彼、こういう人なの。ほんとはあなたのこと心配してるのよ」
沈川澪は苦く笑い、窓の外へ視線を逃がした。
介意する資格なんてない。そもそも来るべきじゃなかった。
道中、朝倉月乃は時おり藤原司へ身を傾け、柔らかな声で何かを話し続ける。二人の空気は噛み合っていて、隙がない。
沈川澪は膝が疼き、頭もぐらぐらして、内容など耳に入らなかった。入れたくもなかった。
自分はまるで、二人の間に割り込んだ余し者のようだった。
車はほどなくして藤原家の邸宅へ着く。
藤原司は停車すると沈川澪へ言った。
「着いた。自分で入れ。俺は月乃を送る」
朝倉月乃は笑って首を振る。
「司、いいよ。私タクシーで帰るから」
藤原司は沈川澪を一瞥し、淡々と言った。
「歩けるだろ」
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
三年の結婚で、彼が自分にこんな優しさを向けたことはない。
今日だって、事故で脚を怪我したから、たまたま送っただけ。
沈川澪は息を吸い込み、苦い笑みを作った。
「大丈夫。帰ってきたばかりなんだし、司が付き添うのが当然でしょ」
朝倉月乃はそれ以上遠慮せず、向き直ってシートベルトを締め直した。
沈川澪が家に入る頃、祖母はもう寝ていた。
シャワーを浴びて寝室へ戻り、ノートPCを開く。画面に大きく浮かぶのは――『離婚協議書』。
離婚の考えは、ずっと迷っていた。
藤原司を長い間好きで、簡単に手放せるものじゃない。
けれど今日、朝倉月乃への態度を目にした。あの慎重な気遣い、守るような優しさ――沈川澪が一度ももらったことのないもの。
心が、ふっと死んだ。もう足掻きたくない。二人を成就させよう。
そのとき、寝室のドアが開く。
振り返ると藤原司が立っていた。
彼は沈川澪の背後へ回り、ふと画面を見る。文字を見た瞬間、顔が陰る。
「こんなことで離婚をちらつかせて脅すのか? 沈川澪、お前は大げさすぎる」
――こんなこと?
沈川澪はそう思えなかった。事故の瞬間、死ぬかもしれないと思った。
そのとき夫は、別の女と笑っていた。
妻が受け入れられるはずがない。
沈川澪の視線は、彼の開いた襟元へ落ちる。口紅の跡がまだ目に刺さる。
淡々と言った。
「シャツ、洗って」
藤原司は見下ろし、ようやく跡に気づく。
「……友達がふざけてさ。月乃にキスしろって。抱き寄せられて、そのとき擦れたんだ」
沈川澪は返事をしない。
真相など、どうでもよかった。彼の心がこちらにない以上、求めたって意味はない。
沈黙に藤原司も気まずくなったのか、言い訳を切るように沈川澪を見た。
風呂上がりの白い肩、ほのかな香り。彼の目が揺れて、衝動のまま抱き寄せ、耳元をなぞる。
「……しばらく、構ってなかったな」声が掠れた。
だが沈川澪の脳裏には、執務室での二人の距離、襟元の口紅。
吐き気に近い嫌悪が込み上げる。
沈川澪は彼を押し返した。
「疲れたの。一人で休みたい」
藤原司は不機嫌に眉を寄せる。
「まだ続けるのか? 最近、ますますワガママだな」
そこへ藤原司のスマホが鳴った。
沈川澪がちらりと見ると、発信者は桐谷景明。
藤原司は窓辺へ行き、背を向けて電話に出る。
切ったあと、どこか上の空で言った。
「用事ができた。出る」
沈川澪は何も言わず、適当に頷く。
藤原司は彼女を一度見ただけで、慌ただしく出ていった。
そんなことは、沈川澪にとって珍しくもない。
彼が去ると、沈川澪はPCに触れなかった。
クローゼットから、前もって用意していたスーツケースを引き出し、静かに服を詰め始める。
離婚に同意しようがしまいが、明日の朝にはここを出る。
名ばかりの夫婦関係に終止符を打つ。
その夜。うつらうつら眠りかけた頃、枕元のスマホが光った。
藤原司からの着信。
胸がざわつく。迷ってから、通話を取った。
「澪?」甘ったるい声。朝倉月乃だった。
「司、飲みすぎちゃって……今バーにいるの。迎えに来てくれない?」
包帯の脚がずきんと疼く。断ろうとしたが、朝倉月乃はさらに言葉を重ねた。
「まだ私のこと、怒ってる? 司、わざとじゃないの。今日はちょっと飲みすぎて……あなたが迎えに来たら、きっと喜ぶよ」
沈川澪は言葉を失った。
朝倉月乃が大人であるほど、自分が小さく見える。
噂されるのも嫌だし、放っておけるほど割り切れもしない。
――どうせ最後の一回。
沈川澪は息を吐いて通話を切り、痛む脚を堪えながらタクシーを呼び、バーへ向かった。
朝倉月乃が言った個室の前へ、脚を引きずって辿り着く。
扉を押そうとした瞬間、中から騒がしい声が聞こえた。
「藤原さん、聞くけどさ。もし当時、朝倉月乃が海外に行かなかったら……沈川澪と結婚してた?」
