第3章
声の主は桐谷景陽だ。
沈川澪の胸が小さく跳ね、扉を押し開けようとした手を引っ込めた。
個室の中。藤原司は少し飲みすぎたのか、シャツの襟元をくつろげて色気のある鎖骨を覗かせていた。彼は隣に座る可憐な朝倉月乃へ視線をやり、酔いの回ったぼんやりとした声で答えた。
「……しない」
その一言で、沈川澪の心は粉々に打ち砕かれた。
「だよな。お前と月乃こそ、ほんとお似合いだったもんな。大学のときからずっと見てきたし。なのに沈川澪に横取りされるとか……」
桐谷景陽が悔しげに言う。
その言葉に、周りも同調した。
「そうそう。沈川澪って何がいいんだ? 顔はまあまあでも、家柄は月乃の足元にも及ばないだろ」
沈川澪は、そっと拳を握りしめた。
確かに、自分は朝倉月乃にはかなわない。朝倉月乃は朝倉グループの令嬢で、幼い頃から何不自由なく蝶よ花よと育てられてきた。
対する自分は、ごく普通の家庭の出身だ。ボランティアで藤原清子と出会わなければ、藤原司と知り合う機会など一生なかっただろう。
「でもさ、藤原さんが結婚してからの数年、沈川澪だって結構よくやってるんじゃないか」
見かねた誰かが、沈川澪を庇うように口を挟んだ。
「何がいいんだよ」桐谷景陽は鼻で笑って手を振った。「藤原さんに嫁いでからは家でぬくぬくしてるだけだろ。うちの月乃みたいに、ずっと仕事で頑張ってるのとは大違いだ」
人混みの中で、朝倉月乃がふわりと微笑んだ。
「澪だって優秀よ。この数年、司のことちゃんと支えてきたじゃない」
そう言って、彼女は甘い視線を藤原司へ向けた。
「ね、司?」
藤原司は首を傾げ、彼女へ優しい笑みを返すと、淡々とした口調で言った。
「あいつがお前に敵うわけないだろ」
扉の外に立っていた沈川澪は、その言葉を聞いて心が真っ逆さまに冷たい底へ落ちていくのを感じた。
――彼は一度も、自分を愛したことなどなかったのだ。ほんの少しも。
そのとき、朝倉月乃が入り口に立つ沈川澪にいち早く気づき、明るく声を上げた。
「澪、来てたのね! 早く入って!」
その声に、藤原司が酔った目を細めて顔を上げる。沈川澪の姿を捉えた瞬間、彼の表情が一瞬だけ不自然に強張った。
部屋中の視線が、一斉に沈川澪へと集まる。
朝倉月乃は立ち上がり、微笑みを浮かべて彼女に歩み寄った。
「澪、遅かったね。来たなら入ればいいのに。廊下、寒いでしょ」
その振る舞いは、まるでこの場の主人のようだった。
沈川澪は表情を変えずに身を引き、彼女が伸ばしてきた手を避けた。
そして彼女を通り越し、酔いに目を潤ませている男を真っ直ぐに見据えた。
個室の中では、先ほどまで声高に話していた桐谷景陽たちがすっかり口を噤み、気まずそうに視線を逸らして、誤魔化すように手元のグラスをいじっている。
藤原司は沈川澪のその静かな眼差しに、酔いが少し醒めたようだった。
ふらつきながら立ち上がると、不機嫌そうな声を出した。
「何しに来た」
「朝倉さんから電話があったの」沈川澪は凪いだ声で言った。「あなたが酔っているから、迎えに来てほしいって」
朝倉月乃の顔が一瞬引きつったが、すぐに元の表情に戻り、弱々しく藤原司を支えながら弁解した。
「司、澪を責めないで。あなたが飲みすぎちゃってたから、心配で……」
「こいつの迎えなんて要らない」藤原司は沈川澪に向かって手を振った。「帰れ。ここにお前の出番はない」
沈川澪は何も言わず、その場に立ち尽くしたまま、ただ静かに彼を見つめていた。
藤原司はその視線に苛立ちを覚え、低い声で吐き捨てた。
「言葉が通じないのか。帰れ!」
沈川澪の姿を見た瞬間から、なぜか胸の奥が妙にざわついていることに、彼自身も気づいていなかった。
以前の彼女なら、間違いなく素直に従って帰っていただろう。
だが今日は違う。もう、この名ばかりの結婚生活に妥協したくなかった。
ここへ来たのは、藤原司との関係に終止符を打つためだ。
「藤原司」沈川澪は静かに口を開いた。「離婚しましょう」
一瞬にして部屋が凍りつき、誰もが恐る恐る藤原司の顔を窺った。
藤原司も虚を突かれたように固まり、目を細めた。
「……何だって?」
「離婚」沈川澪はもう一度繰り返した。淡々とした口調で。
藤原司は嘲るように鼻で笑い、見下すような視線を向けた。
「いいぞ。なら離婚してやる。明日の朝、市役所へ行くか」
沈川澪は頷き、朝倉月乃へ視線を移した。
「藤原司をお願いね。私、帰るから」
朝倉月乃が言葉を探して口を開きかけたときには、沈川澪はすでに片脚を引きずりながら背を向けていた。
事態が大きくなったのを見た周りの友人たちが、慌てて止めに入る。
「そこまでしなくてもいいだろ、藤原さん。沈川澪もわざわざ迎えに来てくれたんだし、一緒に帰ればいいじゃないか。離婚なんて大袈裟な」
朝倉月乃も傍らで口を添えた。
「そうよ、司。早く追いかけて。澪、本当に怒っちゃうよ」
藤原司は苛立たしげに手を振った。
「放っておけ。どうせ口だけだ」
結婚して数年。沈川澪がどれほど自分を愛しているか、彼が知らないはずがない。
離婚? そんなこと、あり得るわけがない。
藤原司は、沈川澪がまたちょっとした癇癪を起こしているだけだと思っていた。家に帰って少し機嫌を取ってやれば、すぐに元通りになるだろう、と。
桐谷景明が冗談めかして言った。
「藤原さん、もし沈川澪が本気で離婚するって言ったらどうする?」
周囲がふっと静まり返る中、藤原司は手元のグラスを揺らし、涼しい顔で言い放った。
「好きにさせればいい」
「さすが藤原さん、男前! じゃあ、一杯!」桐谷景明がグラスを掲げる。
その後、個室には再びどっと笑い声が響き渡った。
扉の外でそのやり取りを聞いていた沈川澪は、無意識のうちに目頭が熱くなるのを感じた。
彼女は感情を押し殺し、一人黙々と藤原家へ戻って荷物をまとめ始めた。
藤原清子が休んでいる今のうちに、この家を出ようと決めていた。
もし彼女が起きてしまったら、どう説明すればいいのか分からなかったからだ。
スーツケースを引きながら、三年暮らしたこの場所を最後に見回す。胸の内は、言いようのない複雑な思いで満ちていた。
最後に、サインを済ませた離婚協議書をリビングのテーブルに置き、沈川澪は一度も振り返ることなく家を後にした。
藤原司が帰宅したのは、すでに深夜だった。
かなり酔いが回っていた彼は、鬱陶しそうに襟元を引っ張ると、いつもの癖で沈川澪の名前を呼んだ。だが、何度呼んでも返事はない。
手探りでリビングの明かりをつけ、テーブルの上に置かれた離婚協議書を目にした瞬間、藤原司は呆然と立ち尽くした。そして、酔いが一気に半分ほど吹き飛んだ。
書類を手に寝室へ向かうと、部屋はもぬけの殻だった。クローゼットの中からも、沈川澪の服がすっかり消え失せている。
嫌な予感に駆られた藤原司は、慌ててスマホを取り出し沈川澪に電話をかけたが、何度かけても繋がることはなかった。
