第5章
あの男は見たところ条件は悪くない。医師という高い社会的地位があり、彼女にもあれほど甲斐甲斐しく尽くしている。
冷酷で無関心なだけの夫である自分より、よほどマシではないか。
だからこそ、あれほどきっぱりと離婚を突きつけ、あっさりと自分をブロックできたのだ。彼女には、立派な逃げ道が用意されていたのだから。
言葉にできない怒りと屈辱感が、藤原司の全身を駆け巡った。
自分がとんだ道化に思えた。
彼女が去ったことで苛立ちを覚え、一瞬でも後悔すらした自分が馬鹿らしい。
結局のところ、すべては彼女が周到に仕組んだ茶番だったのだ。
藤原司は拳を固く握りしめた。力のあまり指の関節が白く変色する。病室で笑みを浮かべるその顔を睨みつける彼の瞳には、どす黒い怒りと失望が渦巻いていた。
彼は中には入らず、冷ややかな一瞥をくれただけで、きびすを返して大股でその場を立ち去った。
藤原司が去って間もなく、病室のドアが再びノックされた。
神谷玲奈が戻ってきたのだと思い、沈川澪は力なく声を張った。
「入って」
だが、ドアを開けて入ってきたのは朝倉月乃だった。
シャネルの最新コレクションに身を包み、非の打ち所のないメイクを施している。手に抱えた色鮮やかな百合の花束が、彼女の優雅さをいっそう引き立てていた。
まるでここが自分の場所であるかのように、手慣れた所作でベッドサイドの花瓶に花を挿す。
「澪、入院したって聞いて、お見舞いに来たの」朝倉月乃の声は水のように優しく、顔には計算し尽くされたような気遣いが浮かんでいた。「どう? 少しは良くなった?」
沈川澪は唇の端を引き上げ、よそよそしい声で返した。
「ご心配なく。死ぬような怪我じゃないから」
朝倉月乃はその言葉の棘に気づかないふりをして、勝手にベッド脇の椅子に腰を下ろした。そしてリンゴの皮を剥き始め、何気ない風を装って口を開く。
「実は今日来たのは、あなたに謝りたくて。この間のオフィスでのこと、私のせいで司を誤解させちゃったでしょ」
沈川澪は彼女の茶番に付き合う気になれず、目を閉じて淡々と言った。
「朝倉さん、言いたいことがあるならはっきり言って」
朝倉月乃の手がピタリと止まる。直後、ふふっと小さく笑ってフルーツナイフを置くと、バッグからスマホを取り出した。写真のフォルダを開き、沈川澪の目の前に突きつける。
「ただね、あなたも知っておくべきだと思ったの」
画面に映し出されたのは、何枚もの古い写真だった。そこに写る藤原司はまだあどけない少年の面影を残しているが、目元にはすでに今の冷ややかな輪郭が窺える。
そして彼の隣には例外なく、花のように微笑む朝倉月乃が立っていた。一緒に花火を見上げ、図書館で勉強し、中には、プラタナスの落ち葉が敷き詰められたキャンパスの小道で、藤原司が彼女をおぶって歩いている写真まであった。
一枚一枚の写真が鋭い刃となって、沈川澪の心の最も柔らかい部分を的確にえぐっていく。
朝倉月乃は、一瞬にして血の気を失った沈川澪の顔を満足げに見つめると、スマホを手元に戻し、今度はメッセージの履歴を開いた。
彼女と藤原司のやり取りだ。
日時は、沈川澪と藤原司が結婚して間もない頃を示している。
『本当に彼女と結婚したの? 私への当てつけのために?』
藤原司の返信は、たった一言だった。
『ああ』
朝倉月乃の声には、微かな優越感と哀れみが混じっていた。
「澪、知ってた? 司があなたと結婚したのは、私がどうしても海外に行くって言い張ったから、ただ意地を張っただけなのよ。この三年間、辛かったわね」
沈川澪の心は氷水に浸されたように、骨の髄まで冷え切った。
藤原司も、少しは自分に好意を抱いてくれていたのだと、ずっとそう思っていた。
彼女は長いこと沈黙した。あまりの長さに、朝倉月乃が泣き崩れるのではないかと期待したほどだ。
しかし、沈川澪はゆっくりと目を開けた。その瞳は澄み切っており、そこには微かな嘲りの色すら浮かんでいた。
「それで終わり?」彼女は静かに朝倉月乃を見据えた。「あなたがどうしても海外に行くって言い出さなければ、私の出番なんてなかったんでしょ? 今さらそんな昔の引っ張り出してきて、何を証明したいの? 彼がどれだけあなたを愛してるかってこと?」
沈川澪はふっと笑いを漏らした。その笑い声は小さかったが、まるで強烈な平手打ちのように、朝倉月乃の頬を熱く打った。
「それとも」沈川澪の眼差しが鋭さを増す。「朝倉さん、今になって焦り始めたの?」
朝倉月乃の顔に張り付いていた優雅な余裕が、一瞬にしてひび割れる。いつも大人しい沈川澪の口から、これほど容赦ない言葉が飛び出すとは思いもしなかったのだ。
沈川澪はもう彼女を見ようともせず、再び目を閉じた。その声には深い疲労が滲んでいた。
「見終わったから、もう帰って。私、疲れてるの」
朝倉月乃は顔を青くしたり白くしたりしていたが、最後はハイヒールを鳴らし、逃げるように病室を後にした。
一方、藤原グループ本社。
藤原司が国際会議を終えた直後、藤原清子から電話が入った。
通話に出るなり、大奥様の張り詰めた怒鳴り声が鼓膜を打った。
「司! お前、澪を怒らせて追い出したんじゃないだろうね! いいかい、どんな手を使ってでも、今日中に澪を無傷で連れ戻しなさい! できなきゃ、もう私の孫だなんて名乗るんじゃないよ!」
それだけ言い捨てて、電話は一方的に切られた。
藤原司はスマホを握りしめ、こめかみに青筋を立てた。
いい度胸だ。
家出をして、自分をブロックした挙句、今度は祖母に泣きつくことまで覚えたというわけか。
胸の奥でくすぶる名状しがたい怒りを抱えたまま、彼はスーツのジャケットを掴み取り、自ら車を飛ばして病院へと向かった。
沈川澪が一体どんな小芝居を打つつもりなのか、とくと見せてもらおうじゃないか。
藤原司は病室のドアを蹴破る勢いで開け放った。だが、ベッドに横たわる青白い顔を見た瞬間、腹の底で煮え滾っていた怒りが、なぜかふっと和らいだ。
凄まじい音に驚いて目を覚ました沈川澪は、入ってきたのが藤原司だと気づくと、一瞬だけ驚きの色を浮かべ、すぐに元の静けさを取り戻した。
藤原司は胸に湧き上がった得体の知れない感情をねじ伏せ、ベッドの傍らへ歩み寄った。彼女を見下ろしながら、ぶっきらぼうな口調で言う。そこには彼自身も気づいていない、微かな不器用さが混じっていた。
「いい加減にしろ。一緒に帰るぞ」
それが彼のなだめ方だった。命令と、施しを与えるような態度。
沈川澪は心底滑稽に思えた。言い争う気すら起きず、ただ淡々と首を横に振る。
「帰らない。私たち、もう終わったの」
そのあまりの静けさが、藤原司を完全に激昂させた。
泣いて、喚いて、以前のように自分が少し歩み寄れば、待ちわびたようにすがりついてくると思っていた。
だが、彼女はそうしなかった。
自分を見るその目は、まるで赤の他人を見るようだった。愛もなければ、憎しみもない。ただ、死んだような無関心があるだけだ。
この思い通りにならない感覚に耐えきれず、藤原司は思わず口汚く嘲笑した。
「終わっただと? 沈川澪、お前は忘れたのか。結婚のとき、祖母さんにサインさせられたあの契約書を」
彼は身を乗り出し、彼女の顎を掴んで無理やり自分と目を合わせさせた。その眼差しは氷のように冷酷だった。
「忘れるな。離婚すれば、お前は一銭も手に入れられないんだぞ!」
沈川澪の体が、びくりと強張った。
