第1章
何か、燃えてる。
まだ完全に覚醒しきらない頭で、まず鼻についたのはプラスチックが溶けるような甘ったるい異臭。はっと目を開けると、デジタルの赤い光が午前三時十七分を告げていた。最悪の時間。枕元のスマートフォンを掴んで画面を睨む。何時間も前に送ったメッセージは、未読のまま放置されていた。
『話があるの』。たった七文字のメッセージは、どうやら翔太にとっては意味をなさなかったらしい。
異臭は刻一刻と濃さを増していく。これは階下の誰かがトーストを盛大に焦がした、なんていう牧歌的な話じゃない。
ベッドから転がり落ちるように抜け出し、充電コードに足を取られそうになる。ドアに向かう数歩の間、どく、どく、と耳障りなほど心臓が脈打っていた。廊下に出た途端、むわりとした熱気が肌を撫でる。……熱い。
いつからだろう。この家の何もかもが、少しずつおかしくなり始めたのは。
気づけば私は走っていた。裸足の裏が、冷たいフローリングを叩く。その単調な音に合わせるように、この一週間に起きた出来事の断片が、次々と脳裏をよぎっていった。
月曜の朝。いつものようにバスルームのドアを開けると――ずっと私だけの聖域だったはずの、その場所に――私の歯ブラシの隣、見慣れないショッキングピンクの電動歯ブラシが当然のように置かれていた。星奈の歯ブラシ。私の空間に、何の断りもなく。
お母さんは、それを当たり前のように言ったのだ。
「ああ、乙美。少し部屋を考えないとね。星奈ちゃんがもっとくつろげるように、広い部屋を譲ってあげましょう」
くつろげるように、ね。『まるでここが、彼女の本当の家みたいじゃない』、そんな言葉が喉まで出かかって、消えた。
水曜日には、翔太がサーフィン仲間と家の前でウェットスーツに着替えていた。私はパジャマのまま、窓から彼を眺めていた。いつもなら、絶対に誘ってくれるのに。『一緒に行くか?』って、あの屈託のない笑顔で。なのにその日の彼は、ボードを小脇に抱えると、こちらを一瞥して「じゃあな」とだけ言った。
それだけ。私を、ここに置いて。
あの馬鹿みたいに通知が鳴りやまなかった家族のグループチャットでさえ、もう昔のままではいられない。昨日、お父さんがグループ名を「桜井家」から「みんなの家」に変えてしまった。それはいったい、誰のためだったんだろう。
煙はみるみるうちに濃くなっていく。階下から誰かの絶叫が鼓膜を突き破り、今度こそ私は本気でパニックに陥った。リビングの窓が、不気味なオレンジ色に明滅している――ああ、神様。うちが、本当に燃えている。
「星奈! 今すぐ外に出るんだ!」
廊下の奥から響いたお父さんの怒鳴り声は、かつて客間だった部屋からだった。
その声に弾かれたように、星奈が来てからずっと彼が寝床にしていたソファから、翔太が飛び起きるのが見えた。ほんの一瞬、視線が絡む。彼の瞳の中で、何かが猛烈な速さで計算されていくのがわかった。
「お前の親父さんと星奈を頼む」
彼はそう言い放つと、もう私に背を向け、弟の陸の部屋に向かって駆け出していた。
「陸は俺が連れて行く!」
そして、あっという間に、私は一人でそこに立ち尽くしていた。私の彼氏が、私の弟を助けるために走り去っていく。私じゃなくて、陸を。
彼の優先順位リストに、私の名前はもうないのだ。
お父さんが、ひどく咳き込む星奈を腕に抱き、よろめきながら姿を現す。彼女はお父さんの肩にぐったりと顔を埋めていた。
「大丈夫だ、怖くないからな。お父さんがついてる。いい子だ」
その声も、その言葉も、かつては全部、私のものだったのに。
すぐに翔太が陸を肩に担いで現れ、裏口へと一直線に向かう。
「乙美! 早くしろ!」
翔太は叫んだが、私がついてきているか確かめるために振り返ることすらなかった。
みんな行ってしまう。私だけを、ここに残して。
玄関は、もう真っ赤な炎の壁に塞がれていた。充満した煙が目に染み、喉が焼け付くように痛い。残された道は、キッチンの引き戸だけだ。
階段を二段飛ばしで駆け下りる。肺が内側から焼かれているみたいに熱い。すべてがスローモーションのように感じられ、まるで他人の悪夢を眺めているかのようだ。なんとか引き戸を這うようにして外に出る頃には、もう息も絶え絶えだった。私はそのままデッキに崩れ落ち、肺の中身をすべて吐き出すように、激しく喘ぎ、咳き込んだ。
救急隊員が私の顔に酸素マスクを当ててくれる。救急車の後部座席に座らされると、全身が鉛になったみたいに重かった。ぼんやりとした視線の先、別の救急車のそばで、星奈の様子を心配そうに覗き込む翔太の姿が見えた。
「ご家族全員、ご無事で何よりでした」
救急救命士が翔太に話しかける声が聞こえる。
「ええ、本当の家族が無事で……神様に感謝します」
静まり返った夜明け前の空気に、翔太の低い声がやけにクリアに響いた。
「もっと酷いことになっていたかもしれませんから」
本当の家族。
そのたった五文字は、どんな濃い煙よりも容赦なく私を打ちのめした。救急救命士の顔が、かすかに困惑の色に歪むのが見える。
「本当の家族、ですか? では、あちらの女の子は?」
翔太は私の方を一瞥し、それから声を潜めた。
「ちょっと、複雑で。彼女は、実は……」
その先の言葉を聞く必要は、もうなかった。
『本当の家族』。その言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。先週、DNA鑑定の結果が出たとき、お母さんは私の手を握りながら言った。十八年越しに、ようやく実の娘が見つかったの、と。病院の手違いで、星奈の代わりに私を授かったのだ、と。
「あなたのことも同じように愛してるわ、乙美。あなたは今でも、私たちの娘よ」
お母さんは、そう言った。
きっと、翔太に悪気はない。パニックになって、つい口走ってしまっただけ。人って、極限状態では馬鹿なことを言ってしまうものだ。だって私たちは、もう二年近く付き合っている。彼はほとんどこの家に住んでいるようなものだった。こんなことで、何も変わるはずがない。
……本当に?
「緊急連絡先を教えていただけますか?」
救急救命士がペンを構えて尋ねる。
「彼氏の翔太と、両親です」
私は無意識にそう答えてから、すぐに後悔した。
でも、彼らはまだ私の緊急連絡先だ。ここはまだ、私の家族のはずだ。
病院では、みんなが星奈の周りに集まっているのを、私は少し離れた場所から眺めていた。彼女は静かに泣いていて、お母さんがその髪を、壊れ物に触れるかのように優しく撫でている。その光景が、ガラスの破片のように胸に突き刺さった。
「シーッ……もう大丈夫よ、星奈ちゃん」
つい最近見つかったばかりの、血が繋がっているというだけの、ほとんど赤の他人。それなのに、なんて親しげに名前を呼ぶんだろう。
私の視線に気づいたのか、翔太がポケットに両手を突っ込んだまま、気まずそうな顔で歩み寄ってきた。
「……お前、大丈夫か?」
大丈夫なわけないじゃない、そう叫びたかったのに、口から出たのは別の言葉だった。
「星奈は?」
彼の顔に、あからさまな安堵の色が広がる。
「ああ、ただ動揺してるだけだ。火事なんて、初めてだろうしな」
初めての火事。まるで私が、何度も経験してきたみたいな言い方。
「消防の話だと、火元は客間の古い配線らしい」
彼は一度言葉を切り、そして、ごく自然に言い直した。
「いや、星奈の部屋だ。お前の親父さんが目を覚まさなかったら、もっと酷いことになってたかもな」
私は頷くふりをしながら、彼のその一瞬の訂正だけを聞いていた。客間――いや、星奈の部屋。翔太の中でさえ、私たちの家の記憶は、もう新しい現実に書き換えられようとしている。
たぶん、私が考えすぎなだけ。これはきっと、新しい家族が増えたときの、ごく普通の順応期間なんだ。星奈が落ち着けば、すべては元通りになる。私たちは家族なんだから。十八年間、私はずっと桜井家の娘だった。DNA鑑定の結果ひとつで、その歳月の全てが消えてなくなるわけがない。
私はまだ、桜井家の娘。きっと、そうだ。
お父さんが星奈の額にキスをし、お母さんが彼女の小さな手を両手で包み込む。彼らは完璧な一枚の絵のように見えた。本物の、家族のように。
だったら、どうして私の胸は、煙を吸い込んだ肺よりも、こんなに酷く痛むのだろう。








