第2話

「藤原夫人!さっき車の中で何を?」

「藤原社長を誘惑したんですか?」

「藤原夫人――!」

フラッシュが乱れ飛び、目が開けられない。晴美は無意識に半歩下がり、ちょうど男の広い胸にぶつかった。

頭上から落ちた低く柔らかな声は、氷水のように冷たい。

「先日、妻とホテルやオークションに出入りした件で、つけ回し撮影するのはまだしも……今日はただ出かけただけで、ここまで?」和也は口元を吊り上げて笑う。だが眼は笑っていない。「プライバシーって言葉、ご存じですか?」

知らない人が聞けば、妻を守る良き夫に見えるだろう。

けれど晴美の背筋は凍った。彼は数言で“本当のスキャンダルの相手”を闇に隠し、正妻である彼女にすべての矢を浴びせたのだ。

――和也が誰かを愛するとき、こうして全力で守るのだ。

晴美の視界が滲む。

やっとの思いで記者を振り切り、藤原家の老宅へ戻った。玄関を開けた瞬間――

「パァン!」

強烈な平手打ちが頬に叩きつけられ、耳がキーンと鳴った。頬が熱く腫れ、痺れる。

姑の藤原雪枝(ふじはら ゆきえ)が突進し、指を突きつけて罵る。

「この恥知らず!よく帰ってこれたわね!最初から言ったのよ、あんたなんか嫁にするべきじゃないって!世界中に知れ渡ったわ、藤原家に恥さらしの嫁がいるって!昼間っから夫を誘って車の中であんなこと!あんたが恥知らずでも、私は顔があるの!」

リビングのソファには、ピンクのロングドレスの若い女が座っていた。長い髪、清楚な化粧――可憐で、守ってやりたくなる顔。

小川葵(こがわ あおい)。和也が本当に愛している女だ。

葵は立ち上がり、雪枝の隣へ。声は柔らかいのに、言葉は毒だった。

「おばさま、怒らないでください。雪見さんが悪いとも言い切れません。あの方、底辺の環境で育ったから……こういう行為が普通だと、生まれつき思ってるのかもしれませんし」

雪枝は晴美を睨みつける。

「生まれつき下品なのよ!」

晴美は熱い頬を押さえ、口の中の血の味を飲み込んで、静かに見返した。

「私が下品? じゃあ、白昼堂々“私に誘惑されて”理性が利かなくなったあなたの息子は、何なんです?」

雪枝の顔色が青黒くなるのも構わず、晴美は葵へ視線を移す。嘲るように。

「出自は悪いけど、礼儀と恥は知ってる。妻のいる男に、わざわざ愛人として張りつきに行くほど落ちてない」

葵の顔が引きつった。

雪枝は怒鳴る。

「何ですって?!」

再び手を上げた、そのとき。玄関から和也が入ってきた。

眉を軽く寄せ、面倒くさそうに言う。

「何を騒いでる」

雪枝が収まらないのを見ると、淡々と付け足した。

「一応、俺の妻だ。顔を潰すなら、俺の顔も潰すことになる」

守っているようで、実際は適当にあしらっているだけ。雪枝は鼻で笑い、命令する。

「ぼさっとしてないで飯作りなさい!葵は酢豚が好きなの。多めに!」

晴美は横目で和也を見る。男の顔は平静で、視線はとっくに彼女を飛び越え、優しく葵に落ちていた。

心臓を握りつぶされる感覚。晴美は目を伏せ、台所へ向かった。

シンクの前に立った途端、背後から葵の低い声が刺さる。

「おばさまにも和也にも嫌われているのに、よくもまあ恥ずかしげもなくここに居座れるね。ほんと図々しい」

晴美は手を止めて振り返り、得意げな顔を眺めて冷たく口角を上げた。

「愛人って、正妻の前に出て“存在感”出すのが好きだって聞くけど。本当なんだ」

固まる表情を眺め、さらに痛いところを突く。

「私がどれだけ図々しくても、藤原家では正式な藤原夫人。外に出るのにコソコソしなくていいし、盾役もいらない。……そうでしょ、小川さん?」

「可哀想に。一番下っ端のお手伝いさんみたいにこき使われて、表向きは妻でも、実態はいじめられ放題の都合のいい女じゃない」

葵は勝ち誇ったように言葉を続ける。

「私だったら、とっくに離婚して逃げてるわ。誰かさんみたいに卑しくないから、そんな扱い耐えるなんて絶対無理……まあ、仕方ないわよね。和也が愛してるのは、この私なんだから!」

「なら、どうして彼は私と離婚して、あなたと結婚しないのかしら?」

晴美の瞳が、冷徹な嘲笑で満たされる。

「それどころか、わずか30分前の車の中では、お前じゃなきゃ駄目だって、私に必死に縋りついて求めてきたけれど。小川さん、ベッドの上の甘い言葉をいちいち本気にするなんて、本当におめでたい頭をしてるのね」

「……っ、まだわからないの!? あなたはただの性処理の道具、私と和也のプレイのスパイスにすぎないのよ! 晴美、本当に惨めね。夫にそんなふうに辱められても、健気に脚を開いて抱かれるなんて。本当に哀れな女!」

言い捨てて、葵はそれでも飽き足らず、いきなり晴美を突き飛ばした。

不意を突かれ、晴美はコントロールを失って後ろへ倒れる。咄嗟に手をついた先――

「――っ!」

掌に鋭い痛み。まな板の横の包丁が、直接彼女の掌に深い裂傷を作ったのだ。

血が一気に噴き出し、白い大理石の天板に滴る。目が痛いほど鮮紅。

そのとき、廊下から慌ただしい足音。

葵の目がきらりと光り、突然悲鳴を上げると、自分もわざとらしく床に転がり、足首を押さえて泣き顔を作った。

「どうした?!」

和也が大股で台所へ飛び込む。

流血する晴美には一瞥もくれず、彼女を通り越して、地べたの葵の前に膝をつき抱き起こした。

葵は彼の胸に縋り、目尻を赤くして涙を滲ませる。

「和也、雪見さんを責めないで……きっとわざとじゃ……」

和也が振り向く。刃のような視線が晴美を貫く。

「これが最後の警告だ」声は氷のように冷たい。「次に葵に手を出したら、容赦しない」

確認もせず、有罪判決。

言い捨てて、葵を抱え上げたまま大股で去っていく。

晴美は呆然と立ち尽くし、自分の掌の、骨まで見えそうな傷を見下ろした。血は止まらず、床に落ちて赤い花を散らす。

やがて、真っ白な顔で、かすかに笑った。

――愛されていないって、こういうこと。

あなたが血まみれでも、彼の目に映るのは他人の可哀想な演技だけ。

でも、もう十分痛んだ。もう、彼はいらない。

晴美はスマホを取り出し、傷ついていない手で番号を押す。

「坂田弁護士。……離婚協議書を作ってください」

血だらけの手を見つめながら、声だけは、これ以上ないほど静かだった。

前のチャプター
次のチャプター