第3話
晴美は胃の奥が焼けるように暴れるのを押し込み、家の扉を開けた。
中は真っ暗。和也は今日も帰っていない。もう慣れた光景だ。
夜の気配に紛れ、ソファへ崩れ落ち、バッグから用意していた離婚協議書を取り出す。白い紙、黒い文字、五年の結婚。指先で表題をなぞるたび、胃の痛みが波のように強くなる。震える手で鎮痛剤を二錠飲み、身体を丸めた。
この家は、かつて彼女の“結婚の夢”を詰め込んだ場所だった。けれど今は、置かれた物すべてが彼女の愚かさを嘲っているように見える。間違った結婚で、彼女は何もかも失った。命さえ、カウントダウンに入っている。
必死にシャワーを浴び、ベッドに倒れ込む。痛みと疲労に沈み、意識は途切れた。
翌朝。広い屋敷にいるのは、また一人だけ。
晴美は離婚協議書を握って会社へ向かったが、空振りだった。和也は屋上階のホテルで開かれる慈善晩餐会に出席しているという。
彼女は微かに眉を寄せる。待てる――はずなのに、今の晴美は一分たりとも待ちたくなかった。
ホテルの化粧室で鏡を見る。紙みたいに白い顔、血の気のない唇。薄く化粧をして病的な疲れを誤魔化し、息を整える。書類袋を握り、宴会場の扉を押し開けた。
金と光に満ち、グラスが鳴る。
中に入り切る前、視界の端で――見覚えのある二人の影が角に映った。
和也はオーダーメイドのスーツで、眩しいほど高貴に立っている。隣の葵はつま先立ちになり、薄い唇へ少しずつ近づいていた。似合いすぎて、目が痛い。
心臓が縮こまり、息ができない。男の顔に浮かぶ甘い許し――それはまるで、大勢の面前で思い切り頬を張られたような衝撃だった。
和也は優しくなれないわけじゃない。ただ、その優しさは最初から彼女のものではない。
昨日の屈辱と積もった怨嗟が潮のように押し寄せ、晴美はヒールを鳴らして近づいた。
「いい加減にして」
歯の間から絞り出すような声。
胃が再び灼ける。身体が揺れ、冷たい壁に指先を押しつけてどうにか立つ。
葵は小鹿みたいに怯え、和也の背に隠れた。
「雪見さん、誤解です。さっきはネクタイを整えてただけで……どうか悪く取らないで」
口では謝りながら、眼だけが露骨に挑発する。
晴美は相手にする気もない。
和也を真っ直ぐ見据え、書類袋を突き出した。
「あなたたちのことはどうでもいい。これにサインして。あなたたちは堂々と一緒になれる。あと、藤原グループにも正式に辞職を出す」
彼の傍にいたくて、あの頃は命を削るほど夜を越え、法務部総監まで登り詰めた。けれど今は、何の意味もない。「辞職」と「離婚」を口にした瞬間、胸の奥が不思議と軽くなった。
和也は怠そうに目を伏せ、書類袋を一瞥――まるでゴミを見るように。
「手口を変えたか?晴美。お前は当時、俺のベッドに潜り込むような汚い手で藤原家に入った。今さら駆け引きか。ほんと、品がない」
一言一言が刃となり、心を抉る。
「当時、私も被害者だった」
信じてもらえないと知っていても、晴美は言わずにいられない。
和也は答えない。嘲りの眼差しだけが、彼女に死刑を告げていた。
「雪見さん、こんなに人がいますし……お話は戻ってからにしません?お水でもどうぞ、落ち着いて」
葵が水の入ったグラスを差し出してくる。
晴美は眉をひそめ、反射的に手を上げて遮った。
だが――彼女の手がグラスに触れるより先に、葵が突然声を上げる。
「きゃっ!」
「ガシャン――!」
グラスが割れ、水が葵に浴びせられた。淡いドレスが濡れて肌に張りつき、線が露わになる。
葵は茫然とした顔で和也の胸にすがり、涙をためる。
「和也……お願い、雪見さんを責めないで。きっとわざとじゃ……」
またこの手。
晴美が言葉を出す前に、深く怒りに沈んだ寒い瞳が彼女を射抜いた。
次の瞬間、手首に激痛。荒々しい力が晴美を突き飛ばす。
「――っ!」
身体が崩れ、頭が大理石の壁に叩きつけられた。目の前がぐらりと揺れる。倒れないよう耐えたが、額に触れた掌は真っ赤だった。
血。
晴美が顔を上げると、和也は極めて優しくジャケットを脱ぎ、葵の肩に掛け、そのまま横抱きにした。
頭から血を流す晴美を見下ろし、男は冷たい声で言う。
「いいか。ここは慈善晩餐会だ。お前が騒いでいい場所じゃない。――消えろ」
最後の「消えろ」が、晴美の尊厳を粉々に踏み潰した。
周囲の客が囁き合う。
「藤原夫人でしょ?男の気を引くためなら何でもするんだな」
「小川さんが可哀想。あんな優しい子を、あの狂犬がいじめるなんて。出て行ってほしい、同じ会場にいるだけで気分悪い」
嘲蔑の視線を浴びながら、晴美は血の額を押さえ、よろめくように宴会場を逃げ出した。
夜は黒く冷たい。涙がようやく堤を切る。
そのとき、頭上に大きな影が落ちた。
低く、測れない男の声が夜風に乗る。
「――それが、お前の望んだことか?」
