第4話
冷たい夜風の中、聞き慣れた声が唐突に響いた。
晴美は全身を強張らせ、無意識に手を上げると、まだ血の滲む額の傷を掌で必死に押さえた。
彼だ。元婚約者の、星野悠(ほしの ゆう)。
どうして帰国しているの。
こんな無惨な姿を見られたくなかった。けれど堪えきれず、ゆっくりと顔を上げてしまう。
街灯の下の彼は、何も変わっていなかった。高価なオーダーメイドのスーツに、金縁の眼鏡。相変わらず、温厚で礼儀正しい紳士のままだ。
ただ、かつて彼女にだけ向けられていた温もりの瞳は、今は刺すように冷たく――その奥に、隠しきれない痛みが滲んでいる。
心臓が、無数の針で縫われるように痛む。幼い頃からの幼馴染が、どうしてこんな結末を迎えてしまったのか。
「答えろ」悠の嗄れた声が再び落ちる。抑え込んだ怒りが混じっていた。「あの時、お前は俺を裏切ってでも、手段を選ばず和也に嫁いだ。頭から血を流して……これがお前の望んだ名門の暮らしか?」
その執念の眼に射抜かれ、晴美は喉を締められたように言葉を失う。
望んだわけがない。
あの頃、彼女は嵌められて薬を盛られ、チンピラに捕まりそうになったところを――逃げ込んだ先が、たまたま和也の部屋だった。
目覚めたとき、室内は荒れ、引き裂かれた衣服が、狂った一夜の痕跡を物語っていた。
一歩間違えれば、すべてが崩れる。
その後は、見えない巨手に背中を押されているようで、引き返す道などなかった。
事が露見したとき、深く愛してくれていた悠は到底受け入れられなかった。数年前、和也との結婚式で、目を赤くして戻れと懇願し、最後は警備員に引きずり出された――その惨状が、今も忘れられない。
晴美は目を閉じ、脳裏を刺す記憶を押し沈める。
再び目を開けると、蒼白な唇で淡く笑ってみせた。
「……まあ、悪くないよ」
「それが悪くないだと?お前は少しも幸せじゃない!」悠は苛立ちを露わにし、金縁眼鏡の奥から彼女を射抜く。その偽りを引き裂こうとするように。「お前は一体、何が欲しくて――」
名門に磨り潰された数年で、晴美は平気なふりだけが上手くなった。たとえ今、額から血を流し、紙のように白い顔をしていても、きちんと笑うことができる。
「人生って、得れば失う。自分が何を欲しいかだけよ」
悠の瞳に痛みが走る。指の隙間から滲む血を見て、ついに心が揺れ、慌てて口走った。
「……その傷」
彼が手を伸ばし、額に触れようとしたその瞬間。澄んだ女声が割り込んだ。
「悠、何してるの?もう宴会が始まるよ」
華やかなドレスを着た若い女が近づき、宙に浮いたままの悠の腕に当然のように絡みついた。
女は振り返り、まるで今初めて晴美に気づいたかのように口元を押さえて驚く。
「わあ、偶然。ここでお姉ちゃんに会うなんて!」
目の前の見慣れた顔に、晴美の胸に複雑なものが渦を巻く。
「……そうね、偶然。琴音、元気だった?」
実の妹、雪見琴音(ゆきみ ことね)だ。
琴音は悠の腕をきつく抱きしめ、すっかりその胸に寄り添って甘い笑みを浮かべる。
「悠がいるから、もちろん幸せよ。ねえお姉ちゃん、うちの会社、立ち上げたばかりで人脈が足りなくて。よかったら、お姉ちゃんと藤原さんと一緒に食事でもして、提携の話ができないかな?」
――和也への取り入り。
ひどく皮肉に思えた。つい先ほど、和也に離婚協議書を叩きつけてきたばかりだというのに。
余計な波風は立てたくない。晴美は淡々と言った。
「機会があればね。二人とも忙しいでしょう、私は行くわ」
かつて深く愛した男と、血の繋がる妹の前で、これ以上自分の惨めさを一秒たりとも晒したくなかった。
背を向けて立ち去ろうとした瞬間、琴音に腕を掴まれた。その声には少しの恨み言が混じる。
「お姉ちゃん、お金持ちに嫁いだからって、パパとママを無視しないでよ。時間あるとき雪見家に帰ってきてご飯でも食べようよ。二人とも……お姉ちゃんに会いたがってるんだから」
会いたがってる?
晴美の胸の奥に、濃い悲哀が掠める。そんなはずがない。
その虚偽の建前を暴くことはせず、ただ心からの祝福だけを残した。
「二人が幸せそうでよかった。これからもっと、幸せになってね」
言い終わる前に腕を引き抜き、ヒールを鳴らして、振り返ることなく夜の闇へと消えていく。
角の向こうで、琴音が不満げに鼻を鳴らす。
「どうしたの?追いかけたいわけ?」
悠は複雑な視線を収め、甘やかすように琴音の髪を撫でた。
「追わないよ。もう終わったことだ。中に入ろう、明日も大事な用がある」
「それでいいの。忘れないでね、今の婚約者は私なんだから……」
風に乗って届く甘えた声を聞きながら、暗がりにいた晴美は空を仰ぎ、瞳の奥の湿りを押し戻した。
よかった。少なくとも、妹と彼は幸せなのだ。
……
タクシーの中。晴美は鎮痛剤を飲み込み、疲れ切って目を閉じた。
物心ついた頃から、彼女と妹の琴音は孤児院で育った。
何年も前、父である雪見賢治(ゆきみ けんじ)がようやく成功を収め、娘を引き取りに孤児院へやって来た。だが誰が想像できただろうか。葵がどこからか情報を聞きつけ、証となる品を偽り、令嬢として雪見家に迎え入れられてしまったのだ。
そして彼女と琴音は、引き続きどん底に置き去りにされ、もがき苦しむことになった。
五年前になってようやく、賢治が人違いに気づき、晴美を探し出した。しかしその頃には、妹の琴音は流浪の果てに行方不明となっていた。
一方の葵はとっくに一家の姫君として君臨しており、晴美の帰還は雪見家の誰からも歓迎されなかった。
それどころか、葵はわざと雪見家を出て行き、「晴美が戻ってきたから、私は姓を改めて身を引くしかない」と触れ回った。まるで晴美が彼女を家から追い出し、雪見家と疎遠にさせたかのように装ったのだ。
この数年、雪見家の両親は、琴音が消えたことも葵が距離を置いたことも、すべて晴美のせいだと決めつけていた。彼女を、利己的で冷酷な、妹の面倒すら見られない悪い娘だと思い込んでいる。
雪見家での数年間は、まさに地獄だった。実の親の視線は、まるで忌まわしい汚物を見るかのようだった。
二年前、琴音はようやく見つかり、留学を終えて帰国しただけでなく、本来なら晴美の婚約者であった悠と結ばれた。
葵と家族の関係も、両親の埋め合わせによって修復されていた。
彼ら一家が和気藹々と笑い合う姿を見て、晴美は完全に理解した。
――あの家において、自分は永遠に異物であり、部外者なのだと。
ブブブ……
バッグの中でスマホが激しく震え出す。画面には「和也」の名前が点滅していた。
晴美は冷ややかに一瞥する。
躊躇いもなく、電話には出ない。
指先で軽くタップし、通話を切る。そして着信履歴を削除した。
一連の動作は淀みなく滑らかだった。
すっかり静まり返った画面を見つめ、晴美は長く濁った息を吐き出す。
――もう、すべて終わらせよう。
