第5話

一時間後。

晴美は小さなスーツケースを引き、新しく借りたアパートの部屋にたどり着いた。

一部屋とリビング。広くはないが、清潔で温かい。新しい部屋、新しい始まり。

和也と暮らすための新居もあったが、彼女はほとんど本邸に呼び戻され、あの家族の世話をさせられていた。今、完全に自分だけの空間を手に入れ、ソファに深く沈み込むと、久方ぶりに自由という感覚を味わった。

こちらが束の間の安寧を得ている一方で、あちらはまったく異なる様相を呈していた。

数杯の酒でほろ酔いになった和也は、革張りのソファにだらりと凭れかかり、長い脚を組んで、しなやかな腕を無造作に肘掛けに乗せていた。伏し目がちに、何気なく再びスマホを手に取る。

やはり繋がらない。

彼は目を細め、考え込んだ。今まで、自分の電話に出ない人間などいなかった。

視線を上げると、人混みの向こうで誰かと挨拶を交わしている悠の姿が目に入り、その瞳がふっと暗く沈んだ。

……

慈善晩餐会が終わり、夜はすっかり更けていた。

高級車の後部座席で、和也は目を閉じて休んでいる。運転手が慎重に尋ねた。

「社長、どちらへ向かいますか」

「新居へ」

無意識にそう口にしていた。

車はすぐに別荘の門前に停まった。庭は漆黒に包まれ、一筋の明かりもなく、異様なほど静まり返っている。

和也は無表情のまま門をくぐった。照明をつけると室内は昼間のように明るくなった。家具の配置はいつもと変わらないのに、妙に伽藍堂に感じられる。

リビングにも、キッチンにも、ダイニングにも、誰の姿もない。

どこへ行った。家出か。

あのろくでもない実家を思い出し、彼の唇に冷笑が浮かぶ。ずいぶんと度胸がついたものだ。慈善晩餐会で恥を晒したのは彼女の方だというのに、離婚協議書を叩きつけ、あろうことか着信拒否までしてのけるとは。

胸の奥にあった僅かな苛立ちは、燃え上がる怒りへと変わった。――いいだろう、小賢しい真似を。家出したいなら、数日放っておけばいい。勝手に反省させてやる。

その時、外からエンジンの轟音が響いた。ドアが乱暴に開かれ、人影がふらふらと入ってくる。

酒の匂いをぷんぷんさせた拓海が、自分の家であるかのようにソファへ倒れ込んだ。

「あの女は? 俺が今日帰るって知ってただろ、なんで飯作ってないんだよ。頭痛ぇし、ついでに酔い覚ましのスープも作らせろ。あいつ、それくらいしか取り柄がないけど、あのスープだけは効くんだよな」

こめかみを揉みながら、苛立たしげに命じる。その口調は、まるで召使いを顎で使うかのようだ。

和也は眉をひそめた。

「無礼だぞ。お前の義姉だ」

拓海は鼻で笑う。

「義姉なんて認めるかよ、恥さらしが。しかも最近調子に乗って、本邸で飯作らないで俺にここまで来させるとか、どんだけサボる気だよ。兄貴、早く呼び戻してくれ。胃が痛くて死にそうなんだ」

彼は幼い頃から胃が弱く、ここ数年、晴美の食事療法のおかげでようやく改善してきたのだ。晴美は献立を研究し、三食欠かさず彼を細やかに世話していた。

それを、和也が知らないわけではなかった。

無意識にスマホを取り出し、晴美の番号に発信する。

やはり繋がらない。

拓海が勢いよく身を起こし、目を丸くした。

「どうなってんだよ!」

兄の沈んだ顔色を見て、舌打ちする。

「俺がかける」

数秒後、電話が繋がった。彼は相変わらず偉そうな口調でまくしたてる。

「どこにいんだよ。さっさと帰って飯作れ。胃の調子悪いんだよ、三十分後にまともな栄養食を出せ――」

ツーツー。

無機質な音が唐突に響き、通話が切られた。

拓海は呆然とする。

「あの女、ここまで図太くなったのか?」

諦めきれず、もう一度かけ直す。

すぐに、電話の向こうから晴美の冷ややかな声が聞こえた。

「今日から、私とあなたたちの家は何の関係もありません。二度と連絡してこないで」

言い捨てるなり、また切られた。

拓海は目を剥き、信じられないという顔をする。

「これ……兄貴に刺激されて狂ったのか?」

和也の顔色はさらに暗くなり、冷たく言い放った。

「本邸に戻れ。お手伝いさんに作らせろ」

言い終わるが早いか、背を向けて階段を上っていく。階下には拓海の悪態だけが残された。

「帰ったら母さんに言いつけて、きっちり絞ってもらうからな。嫁いできて数年で天狗になりやがって、俺の頼みを断るとかありえねぇ」

その言葉を耳にして、和也の足が微かに止まった。胸の奥が妙に塞ぐ。

藤原家の若奥様として、本来なら何不自由なく暮らしているはずだ。だが、弟の悪びれない口ぶりからすれば、晴美は暗黙の了解で“高級な家政婦”のように扱われている。彼は苛立たしげにこめかみを押さえ、何も言わずにそのまま二階へと上がった。

……

電話を切った瞬間、晴美の心は思いのほか静かだった。

藤原家に嫁いでからの数年間、彼女はまるで倒れることを許されない万能戦士のようだった。姑に仕え、夫の弟の胃の面倒まで見なければならなかった。

拓海の胃を整えるため、どれだけ医学書を漁り、真剣に献立の組み合わせを研究したことか。数年がかりで、彼に二度と胃痛を起こさせないようにした。だが、誰が彼女に感謝しただろうか。

今の彼女にとって、生き延びることすら贅沢なのだ。どうしてこれ以上、あの家族に媚びへつらう必要がある。

晴美は首を振り、ぐちゃぐちゃになった感情を押し殺して、持ち出した仕事の書類の整理を続けた。

離婚するにせよ、退職するにせよ、生活は続いていく。苦しい時ほど、一分一秒を大切に生きなければ。

スマホで口座の残高を確認する――仕事探しは急務だ。

不意に、机の上の書類の束を床に落としてしまった。屈んで拾い集める途中、装飾の施された上品な封筒に指先が触れ、動きが止まる。

封を切ると、中には入職の招待状が入っていた。それを見つめるうち、どうしようもなく目の奥が熱くなった。

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