第7話

「くしゅん――」

晴美は小さくくしゃみをし、身体の芯からだるさが這い上がってくるのを感じた。

力を振り絞ってパソコンを開く。メールの返信を目にした瞬間、死んだように沈んでいた瞳に、わずかな光が宿った。

徹夜で練り上げた初期の訴訟方針が依頼人に評価され、勤務先での面談を求められたのだ。

薄く化粧を施し、出かけようとした矢先――胃を雑巾のように絞り上げられる激痛が走った。

弾かれたように顔を上げる。鏡に映る自分は額にびっしりと冷汗を浮かべ、指で突けば破れそうな薄紙のように、血の気が引いていた。

苦痛に耐えかねて床にうずくまり、震える手で鎮痛剤を二錠飲み込む。しばらく荒い息を吐き、ようやくのことで立ち上がった。

行かなければ。仕事をして金を稼がなければ、治療すら受けられない。生きられないのだ。

この依頼を掴むため、晴美は病身を引きずり、約束の高級クラブへと足を運んだ。

エレベーターを降りた途端、廊下の奥から聞き馴染んだ声が鼓膜を刺す。

――世界は、ひどく狭い。

突き当たりにある豪華な個室の扉が半開きになっており、隙間から眩い光と酒の匂いが漏れ出ている。中には人が溢れていた。

上座で背を向けて座る男――その後ろ姿だけで、晴美には和也だとわかった。

今、彼は葵と肩が触れ合うほど身を寄せ合っている。誰もが羨むような美男美女の組み合わせは、痛いほどお似合いだった。

部屋を埋め尽くす御曹司たちが、何やら盛り上がり、囃し立てている。

「お二人さん、やっと結ばれたな!ほら、乾杯しようぜ!」

全員が一斉に立ち上がり、グラスを掲げた。

葵は頬を染め、嬉しそうに和也を見上げて甘えた声を出す。

「もう、和也ったら。みんなからかわないでよ」

扉の外に立つ晴美は、見えない大きな手に心臓を握り潰されたように、呼吸を止めた。

男の横顔を凝視する。時間が、そこで凍りついたようだった。

次の瞬間、和也は一言も否定することなく、甘やかすような笑みを浮かべてグラスを煽り、一気に飲み干した。

個室が割れんばかりの歓声に包まれる。

だが扉の外で、晴美の胸は引き裂かれそうだった。喉にせり上がる血の味を飲み込み、この息の詰まる場所から逃げ出そうと身を翻した。

しかし、振り返った直後――洗面所から戻ってきた拓海と正面衝突してしまった。

「おや?家出した奥様じゃないか。こんなところで何してんの?」拓海は相変わらず人を見下すような態度で、鼻で笑った。「まさか、こっそり兄貴を尾行してきたわけ?あんた、どこまで恥知らずなんだよ」

晴美に反論の隙も与えず、彼は大股で歩み寄り、個室の扉を勢いよく開け放った。

「兄貴、見ろよ!」拓海が大声を張り上げる。「こいつ、また駆け引きしてやがる!家出だのブロックだの騒いでおいて、結局はしつこく兄貴を追ってここまで来たんだ!」

その声は、騒がしい個室を瞬時に静まり返らせるのに十分だった。

全員の視線が、入り口に立つ晴美へと一斉に突き刺さる。

軽蔑、嘲笑、嫌悪、好奇――毒を塗った刃のような視線が、彼女の全身を切り刻む。

晴美は深く息を吸い、胃の痛みを堪えながら、室内の誰にも目を向けず、ただ真っ直ぐに拓海を見据えた。

「よく聞いて。私は仕事で来ただけよ」

「はあ?今さら嘘つけ。お前にどんな正事があるってんだ?お前の人生最大の正事なんて、兄貴にすがりつくことだけだろ!」

昨夜の胃痛を思い出したのか、拓海は顔を曇らせ、皆の面前で犬でも躾けるように命令した。

「ごちゃごちゃ言ってないで、藤原家で無事にいたいなら大人しくしろ!今すぐ帰って飯を作れ。今日から俺の三食は全部お前が用意しろ。しばらく海外には行かないからな」

嫂に向ける言葉ではない。まるで身分の低い家政婦を顎で使うような、理不尽で傲慢な言い草だった。

個室がどっと笑いの渦に包まれる。

「拓海はさすがだな。名門の若奥様が毎日台所に立って飯を作ってくれるなんて、羨ましいぜ」

「全くだ。ここ数年で拓海の胃もすっかり良くなったしな。こんな『いい義姉さん』がいて、お前は本当に幸せ者だよ!」

“幸せ者”という言葉がわざとらしく強調され、見下すような嘲笑が満ちていた。

この上流階級の連中にとって、晴美は藤原家の奥様などではない。ただの押し掛け女房であり、無償の“高級家政婦”――名門の顔に泥を塗る存在でしかなかった。

晴美は拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。こんな狂った連中と関わり合う気はない。背を向けて立ち去ろうとした。

「待ってよ、行かないで!ここ数日会社も休んでるのに、仕事なんてあるわけないじゃない」

葵が赤ワインのグラスを片手に、しなやかな足取りで近づき、晴美の腕を引こうと手を伸ばす。

「さっきのはみんな冗談よ。中に入って、一杯飲んで落ち着いて……」

彼女が近づくにつれ、鼻を突くようなきつい香水の匂いが押し寄せてきた。

ただでさえ体調が悪い晴美の胃が、一気にひっくり返るような吐き気を催す。反射的に手を上げ、その匂いを払いのけようとした。

だが、彼女の手が葵の服の裾に触れるより先に――

「きゃっ!」

葵が突然悲鳴を上げ、強い力で突き飛ばされたかのように、大げさに床へ倒れ込んだ。

それと同時に、彼女の手にあった赤ワインが「ばしゃっ」と音を立て、一滴残らず晴美に浴びせられた。

冷たい暗紅色の液体が白いシャツを這うように流れ落ちる。血のように刺々しい色が、丹念に施した化粧も、保っていた体面も、一瞬にして台無しにした。

晴美は怒りで胸を激しく上下させ、床に這いつくばる女を冷たく見下ろした。毎回同じ手口。あまりにも稚拙な三文芝居だ。

葵は、すべてを見透かすような氷の瞳と視線がぶつかると、ひどく怯えたように身を縮めて起き上がり、大股で近づいてきた和也の背中へ隠れた。

「和也、お願いだから晴美さんを責めないで。わざとじゃないの……私が弱くて、足元がふらついただけだから……」

「いい加減にしろよ葵、まだこんな性悪女を庇うのか!みんなの前で突き飛ばしたんだぞ!」晴美が飯を作ると答えなかったのを見て、拓海がここぞとばかりに煽り立てる。「兄貴、こいつをこのまま許すなよ!」

和也は震える葵を背に庇い、底知れぬ冷たい瞳で晴美の無惨な白シャツを嫌悪に満ちた目で見下ろした。その声は氷のように冷酷だった。

「謝れ」

晴美はゆっくりと顔を上げ、自分が五年間愛し続けた目の前の男を、真剣に見つめた。

見つめているうちに、ふと笑いが込み上げてきた。血の気のない唇が弧を描き、同時に、目尻から音もなく涙がこぼれ落ちる。

「何を笑っている。謝れと言ったんだ」

和也の瞳の奥に苛立ちが走り、口調がさらに数度下がった。

晴美が非を認めないどころか、冷たい壁にもたれて皮肉げに笑っているのを見て、彼は完全に忍耐を失った。一歩踏み込み、晴美の手首を死に物狂いで掴む。手根骨が砕けそうなほどの強い力だった。

「謝れ」彼は顔を近づけ、耳元で一字一字、圧倒的な威圧感を込めて脅しつける。

晴美は必死に振りほどこうとしたが、男女の力の差は歴然だった。手首の激痛に息を呑む。彼女は顔を背け、赤く充血した目で彼を冷ややかに睨みつけた。

「私が謝らなかったら?」

和也の薄い唇が残酷な弧を描き、瞳の色が暗く沈む。

「お前は一体何をごねている。まだ騒ぎ足りないのか?いい加減にしろ。でなければ、後悔することになるぞ」

高いところから見下ろすようなその短い言葉が、直接彼女に死刑を宣告した。

晴美は口を開き、言い返そうとした――だが次の瞬間、顔色が灰のように青ざめた。

胃の奥底から、あの馴染みのある灼熱感が津波のように狂おしく押し寄せてきたのだ。五臓六腑が一瞬にして生きたまま捻り潰されるような激痛に、全身が激しく痙攣する。

最後の力を振り絞って和也を直視し、震える唇で声を出そうとするが、立っている気力すら完全に奪い尽くされていた。

視界が唐突に真っ暗に染まり、彼女は糸の切れた人形のように、冷たい床のタイルへと崩れ落ちた。

――しまった……依頼人に会わなきゃいけないのに……

それが、意識を手放す直前に晴美の脳裏をよぎった、最後の思考だった。

予想していた衝撃と痛みは、やってこなかった。

「どうした?!」

和也が咄嗟に長い腕を伸ばし、倒れ込む彼女の身体をしっかりと抱き止めたのだ。

反射的に腕の中に収めた瞬間、男の目の色が一変した。

――なぜ、こんなに軽い?

まるで一陣の風で吹き飛んでしまいそうなほど、羽のように軽い。

廊下の眩しい照明の下、晴美の顔は透明に近いほど青白く、額には大粒の冷汗が浮かび、唇は噛み切って血が滲んでいた。

彼は無意識にその額へ手を当てた。熱はない。なのに、この異常な冷汗と、氷のような体温は何だというのか。

「晴美? おい、返事しろ!どうした?!」

再び口を開いたとき、和也自身すら気づいていなかった。彼の一貫して冷酷だった声に、かつてないほどの狼狽と微かな震えが混じっていたことに。

前のチャプター
次のチャプター