第8話
万年変わらない氷のような顔で、和也は無意識に眉をひそめた。その眼の奥に、珍しく一抹の心配がよぎる。
傍らにいた葵がその一瞬を見逃すはずもなく、嫉妬で歯が軋む。
「さっきまで元気だったのに。お義姉さん、どうしたんでしょうね」
「どうしたもこうしたも、演技だろ!」
兄の腕に抱かれる晴美を見て、拓海は怒りを爆発させる。
「この女、どんどんやり口が汚くなってく!恥知らずめ、倒れたふりで同情を引こうなんて。今すぐ化けの皮を剥がしてやる!」
言うなり、傍らにあったワイン用の氷桶を掴み、晴美めがけて容赦なくぶちまけた。
「ざばぁっ――!」
氷混じりの冷水が頭から落ちる。刺すような寒さで、晴美は強制的に意識を引き戻された。鋭く息を呑み、全身が激しく震える。
「ほらな、兄貴!俺の言った通りだろ!この女、演技ばっかだ!」
拓海の言葉に、周囲がどっと沸いた。
「おいおい、演技下手すぎだろ。俺なら凍死しても目は開けないね」
嘲笑が、無数の矢となって心を射抜く。
胃がねじ切れるように痛む。顔を歪め、どうにか頭を上げると――氷のように冷酷な瞳と真正面からぶつかった。
視線が絡む。
晴美が目を開けたのを見て、和也の胸の内にあった僅かな心配は一瞬で霧散し、底知れぬ嫌悪と冷たさに取って代わった。
「晴美。大したもんだな」
かつて自分に嫁ぐため、罠を仕掛けてベッドに潜り込み、哀れな被害者を演じた女。藤原夫人の座に就いた今になっても、人前で気絶したふりなどという下劣な真似をするとは。
眼差しは嘲りに満ちていた。晴美が立ち直るのも待たず、彼は容赦なくその手を離す。
「どんっ!」
支えを失い、晴美は硬い床に叩きつけられた。骨がばらばらになるような衝撃に、額には一瞬で冷汗が浮かぶ。
胃の灼熱感が狂ったように暴れ回り、濃い血の匂いが喉の奥へとせり上がってきた。
唇を強く噛み締め、ふと好奇心が湧く。
――もし私が本当に死にかけていると知ったら、和也は後悔するのだろうか。
晴美は口元を押さえて二度空えずきをし、喉の血の味を必死に飲み込んだ。だが、その極限まで衰弱した姿も、他の人間の目にはただの芝居にしか映らない。
和也は立ち上がり、服に散った氷片を払い落とすと、見下ろすように冷たく言い放った。
「満足したか。ここで恥を晒すな」
一言一言が、心を無残に切り裂く。
晴美は内臓がひっくり返るような激痛に耐え、冷たい壁に手をつき、最後の力を振り絞ってゆっくりと立ち上がった。
周囲の予想に反し、彼女はいつものように涙を流すことも、言い訳を口にすることもなかった。
和也に一瞥すら与えず。ただ冷ややかな目でその場にいる全員を見渡し、壁伝いに、背筋だけは真っ直ぐに伸ばして背を向けた。
「おいおい、何様のつもりだよ!」拓海が背後で毒づく。「兄貴、帰ったら母さんに言いつけてやる。藤原の嫁として、きっちり躾け直してもらわないとな!」
――うるさい。
和也は弟のわめき声を無視し、無言のまま立ち尽くしていた。女の薄く細い背中を凝視しながら、胸の奥に説明のつかない苛立ちが込み上げてくる。
あの女、何を狂っている。
人前で嘘を暴かれ、二言三言叱られただけで、あんな態度で去るというのか。まるで、周りの人間も、そして自分自身さえも、どうでもいいと言わんばかりに。
だが、そんなはずがない。
あの時、あらゆる手段を使って自分のベッドに上がり込んだ女だ。藤原夫人の座にしがみつくため、ここ数年どれほど卑屈に振る舞ってきたか――彼が一番よく知っている。
胸の内の苛立ちを押し殺し、和也は淡々と視線を外した。
「……入るぞ。続けろ」
皆が再び囃し立て、ぞろぞろと個室へ戻っていく。葵は良き妻のように和也に寄り添いながらも、その横顔を不安げに盗み見ていた。
……
クラブの化粧室。
鏡の中の女は紙のように青白く、白シャツには赤ワインと氷水が染みつき、まるで瀕死の亡霊のように惨めだった。
命はすでにカウントダウンに入っているというのに、和也は彼女の痛みすら演技だと思っている。
――やはり。愛されない人間の前では、首を吊ってみせてもブランコで遊んでいると言われるだけだ。
晴美は顔を上げ、目の奥に込み上げる熱を無理やり押し戻した。
「泣いてどうするの。心配してくれる人なんていないのに」
心配されないなら、ここで泣き叫んで死んだところで、誰も甘やかしてはくれない。
ブブブ……。
スマホが震える。依頼人からの催促だった。
晴美は乾燥機でどうにか服を乾かし、手早く身だしなみを整える。さっき階を間違えて時間をロスした分、急いでエレベーターを降り、正しい個室へと向かった。
焦るあまり、角を曲がった途端、硬い胸板に正面からぶつかってしまった。
「危ない――」
再び転倒するかと思った瞬間、温かく大きな手が手首をしっかりと掴み留めた。
「すみません……」
慌てて顔を上げて謝罪したが、相手の顔を見た途端、声がぴたりと止まった。
司。
法曹界における無敗の神話。
「偶然だね。大丈夫?」
仕立ての良いスーツを纏う男。金縁眼鏡の奥の瞳は穏やかで、その声には過剰でも不足でもない気遣いが滲んでいた。
彼女の鬢に冷たい水滴が残っているのを見て、彼はごく自然に清潔なシルクのハンカチを差し出す。
「……あなた」晴美は呆然とそれを受け取る。自分のことを知っているのだろうか。
彼女の戸惑いを見透かしたように、司は小さく笑い声を上げた。
「どうした、後輩。俺のこと忘れた?」
後輩?晴美はさらに固まった。
言葉を失っていると、廊下の奥から焦りと苛立ちの混じった女の声が響いた。
「雪見さんですか?遅いですよ、もう……」
晴美ははっとして我に返り、依頼人だと気づく。
「誠に申し訳ありません。少しトラブルがありまして……」
「いいから、無駄話は抜きにして。早く入って本題にしましょう」
佐藤花子は踵を返し、個室へ入っていく。
晴美は慌てて司に一礼して別れを告げ、深呼吸をして気持ちを切り替え、個室へと足を踏み入れた。これは独立して初めて受ける案件だ。何としても掴み取らなければならない。
室内に入ると、花子は単刀直入に切り出した。
「いいこと、お金ならあるわ。子どもの親権を取り返してくれるなら、報酬はいくらでも払う」
晴美は席に着き、絶対的なプロの冷静さを取り戻す。
「承知いたしました。ですが、すべてを包み隠さずお話しいただかないと、お力にはなれません」
花子は晴美をしばらく見つめ、やがてふっと目を赤くした。
「離婚の時、親権を争わなかったのは、あいつの方が経済力があったからよ。でも、あの男、新しい女を作って……あいつら、私の娘を虐待してるの!」
感情が高ぶり、花子は声を詰まらせながら、一つの書類袋を晴美の前に押し出した。
中に入っていたのは、全身が青紫の痣だらけになった子どもの痛ましい写真の数々だった。
「私の仕事が世間的に褒められたものじゃないことくらい、わかってる。いい母親じゃないって言われるのもね。でも……命に代えても、娘をあの地獄から連れ出したいの……」
写真を見つめる晴美の眼差しが、一瞬にして鋭く研ぎ澄まされた。書類を丁寧にしまい、揺るぎない落ち着いた声で告げる。
「状況は把握しました。佐藤さん、ご安心ください。親権は、必ず取り戻します」
……
三十分後。詳細な打ち合わせを終えて個室を出ると、思いがけず、休憩スペースにはまだあの長身の影が残っていた。
「九条先輩……まだいらしたんですね」
晴美は歩み寄り、ハンカチを両手で差し出す。
「先ほどは、ありがとうございました」
司はノートパソコンのキーボードを叩く手を止め、わずかに視線を上げた。
「礼には及ばないよ」
どうしても返そうとする晴美を見て、彼は苦笑した。
「わかった。指導教官の言っていた通りだ。君、骨の髄まで頑固だな」
そう言いながらも、ハンカチは受け取らず、代わりに一枚の名刺を差し出してきた。
「これが俺の名刺だ。昔、招待状を送ったけど断られてしまったからね。でも、九条法律事務所の扉はいつでも君に開かれている。招待は永久に有効だ」
晴美は恐縮しながら名刺を受け取り、愕然とした。
「……どうして、そこまで」
あの時からすでに五年が経っている。ここ数年、彼女は業界から完全に姿を消していたというのに。
司は直接は答えず、膝の上のノートパソコンの向きを変え、画面を晴美に向けた。
「この資料を見て、どう思う?」
晴美は一瞬戸惑い、画面に目を落とす。
ざっと流し読みしただけで、穏やかだった彼女の目が瞬時に鋭さを増し、険しい表情で口を開いた。
「相手企業の財務諸表には、隠蔽された不正行為があります。ここ、それからここの資金の流れも、明らかに二重帳簿の操作が……」
案件についてよどみなく語るその言葉は、論理的で、的確に急所を突いていた。
しばらく語り続けた後、ふと顔を上げると、司が感嘆と驚きを隠せない目で見つめている。そこでようやく自分が出過ぎた真似をしたことに気づき、晴美は照れくさそうに笑った。
司は満足げに頷き、瞳に笑みを浮かべる。
「それが、君を誘う理由だ。――それで、俺のチームに入る気はあるかな?」
冗談ではないと確信し、晴美は手の中の名刺を強く握りしめた。目の奥が熱くなるのを感じながら、深く頷く。
「……ありがとうございます。入ります」
九条法律事務所。それは数多の法律家が夢見る殿堂だ。自分の人生を、これ以上拒絶する理由などどこにもなかった。
