第9話

九条法律事務所に入ると決めた以上、藤原グループの退職は急務だ。

月曜、晴美は整えた薄化粧で藤原グループへ向かい、退職手続きを進めるつもりだった。和也は彼女を嫌悪しているのだから、さっさと消えてほしいに決まっている。

だが法務部に入った瞬間、目に刺さる影があった。――葵だ。

「雪見部長、これらの書類、今日中に終わらせないと退勤できませんよ」葵は堂々と部長席に座り、半メートルはありそうな書類の束を叩いて挑発した。

傍らの助手が虎の威を借りて付け足す。「すべて社長の直接の指示です。終わらなければボーナスも給与もカットです!」

夫と浮気相手が結託して職場で嫌がらせ?晴美は呆れて笑いそうになった。

人事部も秘書課も退職手続きを渋り、社長に直接会えと言ってきた理由がこれだ。

「聞こえました?」晴美が何の反応も示さないのを見て、葵はさらに図に乗る。「今、法務部はすべて私の管轄です。和也さんが、私が疲れないようにって、わざわざシニアアシスタントを二人もつけてくれたんですよ」

覚悟はしていたはずなのに、晴美の胸の奥がちくりと痛んだ。

思えば、藤原グループに入社した当初、彼女は一番下っ端の法務助手から始まり、幾度も徹夜を重ねてようやく部長の座に這い上がった。それでも個室すら与えられなかったというのに。目の前で勝ち誇る葵を見ていると、比べれば比べるほど滑稽だった。

晴美は胸の波立ちを無理やり押さえ込み、冷たく眉を上げた。

「いいわ。好きに仕切れば」

ちょうどエレベーターの扉が開き、晴美は迷わず乗り込んで、下行ボタンを押した。

欠勤でも減給でも好きにすればいい。どうせ辞めるのだ。残り少ない命を、こんなゴミに費やすわけにはいかない。

扉の外で完全に無視された葵が、怒りで机のコーヒーをひっくり返して叫ぶ。

「給与カットよ!今すぐクビにして!」

……

一階ロビー。エレベーターを降りた途端、幹部たちに囲まれた和也と鉢合わせた。

周囲の視線は様々だ。彼らの目に映る晴美は、かつて汚い手段で藤原家に嫁ぎ、今の態度もまた気を引くための“駆け引き”をしている女でしかない。

嘲りの目を無視し、晴美は和也の前に真っ直ぐ立つ。バッグから、司が印刷してくれた名刺を取り出し、差し出した。

「私の新しい肩書です、藤原社長。今後、ビジネスの場でお会いできるかもしれませんね」

和也は名刺すら見ない。視線が急激に沈み、口元に冷笑が浮かぶ。

「……本気か?」

声音は気怠げだが、纏う冷気には明らかな怒りが透けていた。

以前なら、晴美はすぐに態度を軟化させて機嫌を取っていただろう。だが今は違う。

彼女は顔を上げ、非の打ち所がない微笑みを浮かべた。

「もちろん、本気です。離婚も。お時間があるときに手続きを済ませませんか。あるいは社長の身分なら、サインひとつで何とでもなるでしょう」

和也は怒りの極みで笑う。その目は氷のように刺々しい。

「いいだろう。望み通りにしてやる」

……

三十分後。晴美は司のチームと共に、業界ディベート大会の宣伝会場に座っていた。

司会が壇上でルール説明をしていたが、急に話を変える。

「皆様、本日は特別枠をご用意いたしました。藤原グループ法務代表による開会スピーチです!」

会場は雷のような拍手に包まれる。晴美が視線を向けると、特注の湖藍色のドレスを着た葵が、スポットライトを浴びながら堂々と壇上に現れた。

晴美は無意識に貴賓席を見た。

仕事狂の和也が、時間を割いてそこに座っている。彼の視線は壇上の葵に釘付けで、その目には晴美が一度も見たことのない優しさと執着が滲んでいた。

晴美は苦く視線を落とし、手元の資料を見ようとした。だが、葵の澄んだ声がマイク越しに会場へ響き渡る。

「本日は、私が最近、国際核心ジャーナルに掲載した法学論文について共有させていただきます……」

スクリーンにスライドが映し出された瞬間、晴美の顔から血の気が引いた。

――よくも!

それは、晴美の論文だった!

結婚したばかりの頃、晴美もこの結婚に無限の希望を抱いていた。この『婚姻運営と女性の法的権益フレーム』という論文は、彼女が当時、一文字一文字徹夜して書き上げた血と汗の結晶だ。女性は結婚において誠実に向き合いながらも、自己を手放してはならない――それがテーマだった。

書き上げた直後に原稿は消えた。まさか今日、葵が堂々と“自分の成果”として壇上で発表するとは思いもよらなかった。

――パチパチパチ!

演説が終わり、会場は割れんばかりの拍手に包まれる。

晴美は怒りで全身を震わせ、何も考えずに壇上へ詰め寄ろうとした。だが立ち上がった瞬間、手首を誰かに強く掴まれた。

振り向くと、和也の警告を孕んだ氷のような瞳とぶつかる。

「その論文は私のよ!あなたたちが盗んだの!」理性が崩れかけ、晴美は歯を食いしばって吼えた。

「晴美、葵に不満があるなら私的にやれ。場もわきまえずに発狂して、雪見家と藤原家の笑いものになる気か」和也の大きな手が僅かに力を込め、手首の骨が砕けそうなほど締め上げる。その瞳の奥には嘲りが満ちており、まるで道化でも見るかのようだった。

晴美は笑ってしまった。

「この論文の核は、現実の婚姻問題と法律の駆け引きなのよ!葵は結婚したことある?婚姻運営が何かわかってるの?!」

「黙れ」和也の目がさらに陰り、晴美を引く手がいっそう強くなる。

手首の痛みなど、心臓が引き裂かれる痛みに比べれば何でもない。晴美は顔を歪めながら言った。

「もちろん証拠はあるわ!メールにタイムスタンプ付きの原稿が――」

「どうしてそんなひどいこと言うんですか」

葵がいつの間にか壇を降り、目を赤くして二人の傍に来ていた。真珠のような涙が頬を伝い、この上なく可哀想な姿を作る。

「当初、このテーマは私が先に出したんです。雪見さんは私の初稿を見ただけなのに、今さら私を盗人呼ばわりするなんて……」

和也は晴美を乱暴に突き放し、今にも倒れそうな葵を胸に抱き寄せた。

その冷酷な視線が晴美を真っ直ぐに貫く。

「俺は葵を信じる。職場で彼女を陥れようとするなら、絶対に許さない」

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