第2章
翌朝、私は早く起きて荷造りを始めた。
スーツケースに半分ほど荷物を詰めたところで、玄関のドアが開いた。まるで寝ていないような顔をした悠真が入ってくる。
腕には白衣が掛けられていた。彼が私の横を通り過ぎた時、ふわりと香った。微かに、だがはっきりとわかる。ミントの香りだ。
かつて、私は手術の前に必ずミントタブレットを口にしていた。神経を落ち着かせ、集中力を高めるためだ。しかし悠真はそれを嫌がった。オペ室でその匂いがすると気が散る、プロ意識に欠けると言われた。だから私はやめた。もう何年も口にしていない。
結衣はいつもミントガムを噛んでいる。医局の誰もが知っていることだ。だが、悠真は彼女に対してそのことを一言も注意しなかった。
おかしな話だ。彼はミントの匂いが嫌いだったわけではない。ただ、私からその匂いがするのが気に入らなかっただけなのだ。
彼はベッドの上の開いたスーツケースに気づいて足を止めた。「昨夜、結衣が飲み過ぎてな。家まで送り届けてから、近くのホテルに泊まったんだ。だから帰れなかった」
私は顔を上げた。結婚して三年、彼が自分の外泊理由を説明したのはこれが初めてだった。
私は頷き、何も言わなかった。
彼はスーツケースをちらりと見ながら近づいてきた。
「どこか行くのか? 学会か?」
「そんなところ」
彼はほっとしたようだった。
「急がなきゃならないんだ――ちょっと忘れ物を取りに戻っただけでね。昼には戻らないから」
「わかった」
私は服を畳み続けた。昼食の時に話すつもりだったのだ。退職のこと。エス市のこと。すべてを。しかし、彼はすでにドアのほうへ向かっていた。
廊下の棚からギフトバッグ――シルバーの細いリボンが結ばれたネイビーブルーの紙袋――を手に取り、白衣を肩に掛けて出て行く。
バタンとドアが閉まる。その一秒後、ドアの横にある本棚に飾ってあった写真立てが前に倒れ、床に落ちた。
ガラスの破片が散乱する。
私は歩み寄った。そこに写っているのは私たち――初めて二人でオペを成功させた夜の写真だ。医局の誰もが尻込みした、十二時間にも及ぶ僧帽弁形成術。写真の中の私たちはまだ術着姿で、疲れ果てながらも満面の笑みを浮かべ、私は彼の肩に頭を預けている。
あの夜、彼はこう言った。
『毎年、こういうのを一つやろう。誰も引き受けないような一番難しいオペを。俺とお前、二人だけで』
結衣が来てから三年。彼はただの一度も、私をオペに呼ばなかった。
部屋の中は静まり返っていた。冷蔵庫の低いモーター音と、壁掛け時計の秒針の音だけが響いている。
私は膝をつき、ガラスの破片を一つひとつ拾い集めた。それから写真を手に取り、長いこと見つめた後、ゴミ箱に捨てた。
その日の夕方、スーツケースのジッパーを閉め終えたちょうどその時、親友の陽菜から電話がかかってきた。
「結衣のインスタ見た!?」彼女の声はすでに興奮のピークに達していた。
「また投稿してる。あんたの旦那とだよ。麻衣子、私ほんとマジで――」
私はスピーカーフォンに切り替え、アプリを開いた。
結衣の最新の投稿。ベルベット張りのケースに収められた聴診器の置き画だ。明らかに特注品で、チェストピースには彼女のイニシャルが刻印されている。一般人の家賃よりも高くつくような代物だ。
ケースの横には、ネイビーブルーのギフトバッグの端が写り込んでいる。シルバーのリボン。
今朝、悠真がこの部屋から持ち出したのと同じ紙袋だ。
そうか、だから彼は家に戻ってきたのだ。私のためじゃない。これっぽっちも。
キャプションにはこう書かれていた。
『ガタガタ震えながらあのオペ室に入ってから三年。あなたが私を一人前の外科医に育ててくれました。三年目の記念日おめでとうございます、高橋様。あなたがいなければ、今の私はありません。🩵』
三年。
私は画面を見つめた。
そうだ。今日は私たちの結婚記念日でもあった。病院のチャペルで式を挙げてから三年。忘れていた――私たちは一度もそれを祝ったことがなかったから。ただの一度も。
「麻衣子? 聞いてる?」
「彼は私の旦那じゃないよ、陽菜。私たち、籍を入れてないもの」
「えっ?」
私はベッドの縁に腰を下ろした。
「十八回も約束したのに。彼、一度も役所に来なかったの」
電話の向こうが静まり返った。そして、とても優しい声で、「麻衣子……」と聞こえた。
「もうどうでもいいの。法的には夫婦じゃないんだから。ここを出て行くのに、彼の許可なんていらないわ」
