第2章

結菜の視点

 目を覚ましたとき、崇勝の姿はすでになかった。

 ベッドにはまだ彼の微かな温もりが残り、枕からはコロンの香りがほのかに漂っている。天井を見つめながら、自分が本当に眠りについていたのかどうか、わからなかった。

 目を閉じるたびに、あの光景が脳裏に蘇る——彼が司を抱きかかえ、栞奈が背伸びをして彼の頬に口づけをするあの瞬間が。

 悪夢のように、何度も、何度も繰り返される。

 私はガウンを羽織り、裸足のまま裏庭へと足を踏み入れた。

 夜明けの霧は深く、三千株もの薔薇が朝靄の中で咲き誇り、まるで花の海のようだった。それは七年前、崇勝が私のために植えてくれたもの。おとぎ話のような世界を君に贈ろうと、彼は言った。

 今となっては、おとぎ話は所詮おとぎ話でしかないのだと思い知らされる。

「奥様」執事の小崎が園芸用のハサミを差し出した。

「薔薇の剪定の時期でございます」

 ハサミを受け取り、最も妖艶に咲き誇る真っ赤な薔薇を切り落とす。はらりと地面に舞い落ちた花びらは、血のように赤かった。

「枯れた枝葉を切り落とさないと」私は静かに呟いた。

「花全体が死んでしまうから」

「その通りだ」背後から崇勝の声が響いた。

「だが、君が切り落としたその花は、ちょうど見頃だったじゃないか」

 私は一瞬身を強張らせ、振り返らずにいた。

「起こさなくて悪かった」彼は後ろから私を抱きしめ、私の肩に顎を乗せた。

「藤川の連中が予定より早く動いてね。夜明け前に片付ける必要があったんだ」

 その声には深い疲労が滲んでおり、一睡もしていないのは明らかだった。

 私は何も答えなかった。

「機嫌が悪いな」彼は私の首筋に口づけを落とした。

「わかるよ」

「何でもないわ」

「嘘つき」彼は私の体を反転させ、無理やり自分と目を合わせさせた。

「教えてくれ、結菜。その美しい頭の中で、一体何を考えているんだ?」

 私は伏し目がちに答えた。

「ただ、よく眠れなかっただけ」

 彼の指先が、私の目元を優しくなぞる。

「そうだろうね。さあ、座ろう」

 彼に手を引かれ、庭のベンチに腰を下ろすと、彼はその薔薇の海を指さした。

「俺たちの結婚式を覚えているか?」彼の瞳が輝きを帯びた。

「君に薔薇の海を贈ると約束した。いずれ俺たちに子供が生まれたら……」彼は少し言葉を切り、さらに優しい声色になった。

「もう三千株植えよう。赤、白、ピンク——この屋敷中を薔薇で埋め尽くすんだ」

 その語り口はとても熱を帯びていて、まるで未来を夢見る少年のようだった。

「あいつには乗馬を教えよう。S市に連れて行き、俺が育った場所を見せるんだ。祖父の話をして、一族の伝統を伝えて……」

 彼がしばらくの間、堰を切ったように話し続けて、ようやく私が一言も発していないことに気づいた。

 そして、私のすすり泣く声に気づいたのだ。

「おい、おい——」彼は途端に慌てふためいた。

「どうした? 俺、何か変なこと言ったか——すまない、子供の話なんてするべきじゃなかった——」

 敵対組織の銃口を前にしても顔色一つ変えなかった男が、私の涙を前にして全身を震わせている。

「あなたのせいじゃないわ」私は無理に微笑みを作り、目元を拭った。

「昨日の夜、晴子から電話があって。彼女、泣いていたの」

 彼は眉をひそめた。

「どうしたんだ?」

「旦那さんの車から、別の女のピアスの片方を見つけたんですって」

 崇勝の体が、一瞬だけ硬直した。

 本当に、ほんの一瞬だけ。

「それで?」彼の声はひどく落ち着いていた。

「彼はきっぱり否定したそうよ。晴子の被害妄想だって」私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。

「崇勝……もしあなただったら……私に嘘をつく?」

 数秒間、空気が凍りついた。

「絶対にない」彼はそう言い切り、私の顔を両手で包み込んだ。

「君にそんな真似は絶対にしない。いいかい? 絶対にだ」

 彼は私の額にキスをした。

「他の男はろくでなしばかりかもしれないが、俺は違う。少なくとも、君に対してはね」

 その言葉はひどく誠実で、眼差しには一点の曇りもなかった。

 もし私が真実を知らなければ、きっと信じていただろう。

「さあ、そんな暗い話はもうやめよう」彼は急に笑顔を見せ、ポケットからタブレット端末を取り出した。

「君への記念日のプレゼント、少しだけ早く見てみないか?」

 画面に映し出されたのは、一つのプライベートアイランド——真っ白な砂浜、透き通るような青い海、揺れるヤシの木々、そして海面に真珠のように散りばめられた水上ヴィラだった。

「買ったばかりだ」彼の口調には誇らしげな響きがあった。

「唯一無二の場所さ。プライベートアイランドの高級リゾートで、最高レベルのセキュリティに医療設備も完備している……これから先、君が休暇を過ごしたい時にいつでも行けるようにね……」

 彼は子供のように目を輝かせ、未来の計画を語っていた。

 だが、私はただ薄く微笑むだけだった。

 だって私は知っている。私たちに未来などないことを。

「今日の午後、すぐに出発しよう」彼は言った。

「晴子たちも誘ってさ。あのろくでなしの旦那のことなんて忘れて、気晴らしさせてやればいい」

 午後3時、私たちはリゾートに到着した。

 晴子、春奈、美優はすでにプライベートビーチで私を待っており、白いテーブルの上にはシャンパンや華やかなアフタヌーンティーが並べられていた。

「ちょっと、結菜!」春奈が駆け寄ってきて私を抱きしめた。

「ここ、信じられないくらい最高! 崇勝ってば、どうして毎回あんなにハードルを超えてくるの?」

「彼女の誕生日のこと覚えてる?」美優が言った。

「彼、メトロポリタン歌劇場を丸ごと貸し切ったのよ」

「バレンタインだってそうよ」晴子が言葉を継いだ。

「夜空の花火であなたの名前を描かせたんだから」

「あんた、前世で銀河系でも救ったんじゃないの」春奈が笑いながら言った。

「じゃなきゃ、崇勝みたいな男と巡り会えるわけないわ」

 そこへ、崇勝がカシミヤのブランケットを手に歩いてきた。

「潮風が冷たい」彼はそう言って、自らの手で私にブランケットを羽織らせた。

「風邪を引かないようにな」

 春奈が片眉を上げた。

「崇勝、私たちは全員女よ。結菜が安全なことくらい、わかってるわよね?」

「だからこそ心配なんだ」崇勝は淡々と言い放ち、その独占欲を隠そうともしなかった。

「彼女は俺のものだ。誰が見ていようとな」

 彼は私の友人たちに向き直った。

「今日君たちが注文するもの——スパでも、レストランでも、何でも——すべて俺の奢りだ。存分に楽しんでくれ」

 友人たちは歓声を上げ、グラスを掲げて祝福してくれた。

「結菜、あなたは本当に幸運ね」晴子が羨ましさでいっぱいの瞳で言った。

「彼、本当にあなたのことを愛してるのね」

 私は愛想よく笑ってみせたが、その笑顔が目元に届くことはなかった。

 私のその幸運が、少しずつ指の間からこぼれ落ちていくことを、彼女たちは知る由もなかった。

 笑い声がまだ響いている中、私は彼女の姿を捉えた。

 栞奈が司の手を引いて歩いてきたのだ。

 その場が、一瞬にして静まり返った。

 その3歳の男の子は、深い焦茶色の瞳を持っていた——崇勝と瓜二つの瞳。誰の目にもそれは明らかだった。

「崇勝!」司は彼を見つけるなり、栞奈の手を振り解いて飛びついていった。

 崇勝の顔色が変わった。

「栞奈、どうしてここに?」

 しかし司はそんなことにはお構いなしに、一直線に崇勝の胸に飛び込んだ。崇勝は無意識に彼を受け止めたが、その動作はまるで数え切れないほど繰り返してきたかのように手慣れていた。

「崇勝おじさん!」子供の小さな手が、彼の首にしっかりと抱きついた。

「お邪魔してごめんなさいね」栞奈は微笑みながら言った。

「司が朝からずっとあなたに会いたいって駄々をこねて。リゾートにいらっしゃると聞いて、つい……この子があなたを恋しがっているから」

 メイドが慌てて駆けつけると、栞奈は「司をキッズエリアへ連れて行ってちょうだい」と申し付けた。

 子供は名残惜しそうに尋ねた。

「おじさん、夜に会いにきてくれる?」

崇勝の喉仏がゴクリと動いた。

「ああ。いい子にしてるんだぞ」

 その言葉を聞いて、子供はようやく大人しくメイドについていった。

 その一部始終を前にして、私の友人たちはその場に凍りつき、何を言えばいいのかわからないようだった。空気は異様なほど気まずくなった。

 そして栞奈は、私の向かいの席に腰を下ろした。

 彼女はハンドバッグから腕時計を取り出し、無造作にテーブルの上に置いた。

 それは崇勝の腕時計だった。私が新婚の贈り物として彼にプレゼントしたもので、彼は片時も肌身離さずつけていたはずの時計だ。

「そうそう、崇勝」彼女は彼を見つめ、意味深な笑みを浮かべた。

「これ、昨夜私のところに忘れていったわよ」

前のチャプター
次のチャプター