第3章

【結菜の視点】

 空気が凍りついた。

 全員の視線がその腕時計に注がれ、そして私へと向けられる。

 シャンパングラスを握る手が、じわじわと強張っていく。

 崇勝の顔色が瞬時に変わった。

「昨夜、離れで家の書類整理をしていたんだ。おそらく、その時に落としたのだろう」

「そうね」

 栞奈も笑みを浮かべて調子を合わせる。

「崇勝は昨夜、遅くまで離れにいたわ。藤川家の用事で、でしょ?」

 崇勝は腕時計を受け取ると、再び手首にはめ直した。

「ありがとう。ちょうど探していたところなんだ」

 そして私に向き直り、何事もなかったかのような軽い口調で言う。

「今日はいい天気だ。水上バイクでもどうかな? 最新モデルを用意させてあるんだ」

 友人たちも次々と相槌を打ち、必死に場の空気を和ませようとしている。

 私はただそこに座り、上品な微笑みを貼り付けていた。だが胸の内は、どくどくと血を流している。

 過去三年間、彼は一体どれほど同じような嘘を重ねてきたのだろうか。家の仕事だと言って出かけた幾つの夜を、あの母子に捧げていたのか。『急な会議』と称していたもののうち、幾つが司の誕生日パーティーだったのか。

 ふと、数々の些細な出来事が脳裏をよぎる——彼がたまに持ち帰ってきた子供用の絵本は、「間違えて書類に紛れ込んだ」と言っていた。スーツのポケットから出てきたキャンディーの包み紙は、「部下の子供に無理やり押し付けられた」と言っていた。

 すべて司のものだったのだ。最初から、ずっと。

 彼が私にしてくれたすべてのことを、彼女にも同じようにしていたのだ。

 突然、強烈な吐き気が込み上げてきた。潮の香りとシャンパンの匂いが入り混じり、胃袋が激しくかき回される。

 私は口元を押さえ、血の気を失った。

「結菜?」

 いち早く異変に気づいた崇勝が、グラスを置いて駆け寄ってくる。

「どうしたんだ?」

「平気よ」

 私はやっとの思いで声を絞り出した。

「少し、船酔いしたみたい」

 その時、栞奈の声が響き渡った。

「あら、もしかして……ご懐妊かしら?」

 その場にいた全員が硬直する。晴子が引きつった笑いを浮かべ、その場を取り繕おうとした。

「栞奈、そういう冗談はちょっと……」

「どうして?」

 栞奈は目を丸くして、無邪気な表情を作ってみせる。

「妊娠ならおめでたいことじゃない。結菜と崇勝が結婚してもう七年。そろそろ子供がいてもいい頃でしょ」

 テーブルは水を打ったような静けさに包まれた。誰も口を挟む勇気はない。

 なぜなら、誰もが知っているからだ——それが禁忌であると。

 崇勝の顔色が険しく曇る。

「栞奈、もう帰れ」

 しかし栞奈は、まるで聞こえていないかのようだった。

 彼女は私を見つめ、偽りの同情を瞳に浮かべる。

「私はただ、結菜のことを心配しているだけよ。だって女もこの年になって、まだ子供が産めないなんて……」

 彼女はわざとらしくため息をつき、首を振った。

「崇勝も水臭いわね。結菜の具合が悪いなら、早く教えてくれればよかったのに。司が生まれた時にお世話になった産婦人科の先生、とても腕がいいのよ。紹介してあげ——」

 パァン!

 乾いた破裂音が空気を引き裂いた。崇勝の手が容赦なく栞奈の頬を張り飛ばしたのだ。その凄まじい力に、彼女の体は数歩よろめく。

 全員が言葉を失った。

 崇勝は栞奈を見下ろし、冷酷な声で言い放つ。

「次に一言でも口を開けば、二度と口がきけないようにしてやる」

 栞奈は頬を押さえ、目に涙を浮かべていた。

 彼女は私を一瞥した。その視線には憎悪と優越感が入り混じっている。そして、逃げるようにその場を立ち去った。

——

 崇勝が私に向き直ると、先ほどの冷酷さは嘘のように消え去り、底知れぬ優しさと罪悪感がその瞳を満たしていた。

「結菜、すまない……」

 痛みを堪えるような、かすかな声。

「君にこんな思いをさせるべきじゃなかった」

「少し疲れたわ」

 私は彼の言葉を遮った。

「部屋に戻って休みたいの」

「俺も付き添うよ」

「いいえ」

 私は首を振る。

「一人で大丈夫。あなたは晴子たちのフォローをしてあげて。心配させたくないから」

 崇勝は少し躊躇ったが、やがて頷いた。

「わかった。ゆっくり休んで。何かあればすぐに呼んでくれ」

 ラウンジに戻ると、不意にスマートフォンが震えた。栞奈からの着信。

 通話ボタンを押し、無言のまま耳に当てる。

『あの平手打ちに意味があるなんて思わないことね』

 スピーカーの向こうから、嘲笑するような声が響く。

『聞いてみなさい』

 続いて聞こえてきたのは、崇勝の声だった。

『司、もう泣かないで』

 優しくあやすような声。

『アイスクリームが食べたいのかな? パパが買ってあげるよ』

『お父さんが、お母さんをぶった……』

 子供のしゃくり上げる声が重なる。

『お母さんのお顔、血が出てる……』

 崇勝の声はさらに甘さを増した。

『ごめんな、パパが悪かった。司、何が欲しい? パパが何でも買ってあげるから』

 背後から、栞奈の泣き声交じりの声が割り込んでくる。

『崇勝、あのリゾート、本当に素敵ね。私と司にちょうだい?』

『栞奈……』

 崇勝の声に躊躇いが混じる。

『あの平手打ちの慰謝料だと思って』

 栞奈が鼻をすする。

『それに、司を悲しませたくないでしょ? この子、あんなに海が好きだから……』

 崇勝は深い沈黙に沈んだ。

 長い、沈黙。

 そして——

『……手配しよう』

 通話が切れた。

 私はただ呆然と座り込み、鉛のように重いスマートフォンを握りしめていた。

 十分後、崇勝からメッセージが届いた。

『結菜、あのリゾートは地盤に問題があって、エンジニアが長期滞在には向かないと言っているんだ。代わりにスコットランドに城を買ったから。君なら絶対に気に入るはずだよ』

 メッセージの文面を眺めながら、私は唇の端を歪めて嗤った。

 彼はいつもそうだ。一方に与えれば、もう一方を別の形で埋め合わせる。それで両立できるとでも思い込んでいる。

 私は短く返信した。

『好きにして』

 再びスマートフォンが震える。平木からのメッセージ。

『奥様、すべての準備が整いました』

 私は深く息を吸い込み、そっと下腹部に手を添えた。

 ごめんね、赤ちゃん。お母さん、あなたに温かい家族を与えてあげられなくなっちゃった。

——

 結婚七周年の記念日の夜、崇勝は豪華なクルーザーを貸し切った。

 甲板に立つと、夕陽が海面を黄金色に染め上げ、カモメが空を舞っていた。彼が背後から私を抱きすくめる。首筋に冷たい感触が走った——豪奢なネックレスが、私の首にかけられたのだ。

「このサファイアは『深海の涙』といって、世界に一つしかないんだ」

 彼は耳元で低く囁く。

「君と同じ。俺のたった一つの宝物だ」

 彼が私の額に口づけを落とす。

「七年だな、結菜。ずっとそばにいてくれてありがとう」

 私は彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「崇勝。もしある日、私がここからいなくなったら、寂しいと思ってくれる?」

 彼は一瞬虚を突かれたような顔をし、すぐに笑みをこぼした。

「馬鹿なことを言うな。君はずっと俺のそばにいるんだから」

「もしもの話よ」

「もしそうなら、俺は狂ってしまうだろうな」

 彼の声には、真剣な響きがあった。

「君なしでどう生きていけばいいか、俺にはわからない」

 私はかすかに微笑み、そのまま押し黙った。

 その時、彼のスマートフォンが鳴った。画面には『B』という文字が表示されている。

 崇勝の顔色が変わる。電話に出ると、栞奈の泣き叫ぶ声が漏れ聞こえてきた。

『崇勝、司が大変なの! 突然高熱を出して痙攣しちゃって。お医者様が髄膜炎かもしれないって……』

 崇勝の顔から血の気が引いた。

「今すぐ行く!」

 彼が私を振り返る。その瞳には、色濃い罪悪感と葛藤が渦巻いていた。

「結菜、司が倒れた……」

「行って」

 私は静かに告げた。

「すまない……」

 彼は私の額にキスをした。

「すぐに戻るから」

 そしてモーターボートに飛び乗り、夜の闇の中へと消えていった。

 私は甲板に立ち、遠ざかっていく彼の背中を見送った。

 結局、彼はそちらを選んだのだ。

——

 崇勝が去ってから五分後、平木がクルーザーの船室から姿を現した。

「奥様、ただちに離脱を」

 私はネックレスを外し、一つの密閉袋とともに平木に手渡した。中には妊娠検査の報告書と、エコー写真が入っている。

「これは、爆発の後に彼へ渡して」

 平木に支えられながら、私はもう一隻のモーターボートに乗り込んだ。エンジンが唸りを上げ、ボートがクルーザーから離れていく。

 最後に一度だけ振り返る。あのクルーザーは夕暮れの名残を浴びてきらきらと輝き、まるで美しい夢のように見えた。

 直後、轟音が響き渡り、炎が天高く噴き上がった。

 夢は粉々に砕け散った。

「さようなら、鳥山崇勝」

 私は燃え盛る炎の海に向かって、そっと呟いた。

——

 崇勝が離れに駆けつけた時、すでに司の熱は下がっていた。医者によればただの風邪であり、水分を多めに取らせれば問題ないという。

 栞奈は気まずそうに笑みを浮かべた。

「私、少し神経質になりすぎていたみたい……」

 崇勝は安堵の息を吐いたが、同時に言葉にならない苛立ちが胸の奥から込み上げてくるのを感じた。時計を見ると、時刻はもうすぐ午後九時を回るところだった。結菜がまだクルーザーで彼を待っている。

 彼はスマートフォンを取り出し、謝罪の電話をかけようとした。

 ちょうどその時、着信音が鳴った。彼の護衛からだ。

『ボス!』

 護衛の声はパニックに陥っていた。

『緊急事態です! 奥様の乗られたクルーザーが……クルーザーが爆発しました!』

 崇勝の手からスマートフォンが滑り落ちた。

 瞬時にして、彼の顔からすべての血の気が失せ、真っ白になる。

「……なんだと?」

『海上でクルーザーが爆発したんです』

 護衛の声は激しく震えていた。

『奥様は……奥様は……生存は絶望的です……』

 崇勝はその場に凍りついた。

 全世界が、完全に静止した。

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