第5章

 森原覚の詰問に、私はすっと目を冷やした。

 ……何、その言い草。

 朱音にコーヒーを淹れろと命じたのは自分のくせに、今度は私が大人しすぎるとでも言いたいの?

 私はすぐさま言い返した。

「じゃあ、どうしろっていうの? あなたの大事なお姫様にコーヒーを淹れさせたのはあなたでしょ。なのに今さら、私を責めるの?」

「それに、契約書のどこにも書いてないわ。契約妻が、雇い主の女遊びにまで付き合って、機嫌を取れなんて」

 私が真正面から噛みついたせいか、森原覚の目がわずかに見開かれた。

 いつも従順な私が反抗した。それがよほど意外だったのだろう。

 もうこれ以上、言い合う気はなかった。私は彼の胸を押して、この距離から抜け出そうとする。

 けれど、びくともしない。

 それどころか、森原覚はひょいと手を伸ばし、私の細い腕を掴んだ。

「淹れたくないなら、できないって言えばよかっただろ」

「森原家でこんなに長く暮らしてきて、断り方ひとつ覚えてないのか?」

 その言い方に、余計に腹が立った。

 私は鼻で笑って返す。

「できないって言ったら? どうせあの人は『じゃあ覚えなさい』って言うでしょ」

「そのとき結局、あなたはまた彼女の隣に立って、私に命令するんじゃない」

「どうしてそう言い切れる?」

 呆れるほど中身のない問いに、私は冷ややかに笑った。

「どうして? そんなの決まってるでしょ」

「あなた、あの人に骨抜きなんだから。高嶺の花に夢中で、尻尾まで振ってるようなものよ」

 契約結婚をしてからの三年間、私は一度だって彼にきつい言葉をぶつけたことはなかった。

 でも、今日は無理だった。皮肉が次から次へと口をついて出る。

 森原覚の顔色が、ぴくりと変わる。

「……俺が、そんなふうに見えてるのか?」

 私は冷たく鼻を鳴らした。

「違うの?」

「4年前に捨てられたくせに、いまだに相手の好みを細かく覚えてる。コーヒーは砂糖多め、とかね」

「苦いのが嫌なら飲まなきゃいいのに。飲みたい、でも苦いのは嫌――そんなの、格好つけてるだけでしょ」

「周りはみんな気づいてるわ。なのに、あなただけが嬉しそうに振り回されてる」

「それで、よく私を責められるわね」

 私が吐き捨てるたびに、森原覚の表情はめまぐるしく変わった。

 意外そうに目を細め、次の瞬間にはふっと笑い、最後には妙に余裕ぶった顔になる。

 口元をわずかに吊り上げ、彼は言った。

「……嫉妬してるのか?」

「俺と空野朱音に」

 その一言に、心臓がどくりと跳ねた。

 図星を刺されたせいだ。朱音が森原覚にべったりと寄り添っているのを見たとき、胸の奥が嫌にざわついた。

 たぶん私は、少しだけ踏み越えてはいけない線に触れかけていた。

 それでも、認めるわけにはいかない。

 私はもう一度彼を押し、コーヒーメーカーの中に残った挽きたての豆を片づけようとする。

 けれど森原覚は私を逃がさなかった。

 掴んだ腕を引き寄せ、そのまま私を給湯室の作業台へ追い詰める。高い体が覆いかぶさるように迫ってきた。

「なあ」

 彼の顔には、意地の悪い笑みが浮かんでいる。

「さっき、嫉妬したんだろ?」

 答えたくなくて、私はまた彼を押し返そうとした。

 だが次の瞬間、森原覚はさらに踏み込み、いきなり私の唇を塞いだ。

「――っ」

 あまりに唐突なキスに、頭が真っ白になる。

 何を考えてるの、この人……?

 朱音はまだ外にいる。なのに、こんなところで私にキスするなんて。

 見つかるとか、疑われるとか、そういうことを少しも考えていないの?

 私は必死に彼を押した。距離を取ろうとする。

 もうすぐ離婚するのに、こんなところで余計な火種を作りたくない。

 けれど、押し返されるほど森原覚は熱を帯びていくみたいだった。

 大きな手が、するりと胸へ這い上がる。

 ぐっと揉み込まれた瞬間、体がびくっと強張った。

 夫婦として三年。彼はもう、とっくに私のどこが弱いのか知り尽くしている。

「森原覚、頭おかしいの? 離して」

 キスが唇から顎へ、さらに下へと落ちていった隙に、私はようやく息を吸い込んで叫ぶ。

 でも、彼は止まらない。

 むしろますます深く、執拗になっていく。

 やがて鎖骨のあたりに、ちくりとした痛みが走った。

 はっとして視線を落とすと、そこにははっきりと赤い痕が残っていた。

 森原覚は唇の端を歪め、わざと意地悪く囁く。

「離せ、ね」

「口ではそう言ってるくせに、さっきから気持ちよさそうだっただろ」

 もう相手をするのも嫌で、私は膝を持ち上げて彼の股間を狙った。

 ところが触れかけたその瞬間、腰のあたりにあるものの熱と硬さに気づいてしまう。

 ……うそでしょ。

 この男、朝あれだけ私を抱いたばかりなのに、まだこんな反応をしてるの?

 森原覚は完全に熱を上げていた。

 私の体を正面へ向けさせ、脚で腰を挟み込む。逃がさないように押さえつけたまま、また唇を寄せてこようとする。

 そのときだった。

 給湯室の外から、空野朱音の甘ったるい声が響く。

「覚くん、どこにいるの?」

 その声を聞いた途端、森原覚は一気に我に返った。

 私をぱっと突き放し、あからさまに距離を取る。

 朱音に何か悟られるのが怖いのだろう。彼は急いで服の乱れを整え、シャツを引き、ズボンの位置まで直した。

 それからようやく、ドアのほうへ向かって声を返す。

「ここだ……」

 その一連の動きに、私は思わず白けた目を向けた。

 最低。

 高嶺の花を想ってるふりをしながら、その一方で私にはこんな真似をするなんて。

 目の前の男は、いったい何なの。

 もう構う気にもなれず、私は背を向けてコーヒーメーカーの中を片づけ始めた。

 少しして、また外から朱音の声がする。

「覚くん……」

 彼女がすぐにでも入ってきそうだと思ったのか、それとも何かを勘づかれるのが怖かったのか、森原覚は私の耳元で低く言った。

「さっきのことを、空野朱音に知られるわけにはいかない」

「どうすればいいか、わかるよな」

 そう言い残し、彼はほんの2秒ほど私のそばに立ち尽くしたあと、くるりと背を向けてドアを開け、出ていった。

 胸の奥に、ずしんと重たい石を落とされたみたいだった。

 息苦しい。

 私はゆっくり手を伸ばし、襟元を引き上げる。さっき鎖骨につけられた痕を隠すために。

 するとまた、外から朱音の声。

「覚くん、どうして給湯室にいたの?」

 森原覚が答える。

「コーヒーがどうなったか見に来たんだ……お前、挽きたてが好きだろ。家政婦にもちゃんと気をつけさせてる」

 その言葉に、朱音は案の定、うっとりした声を上げた。

「覚くん、ありがとう。やっぱり、この世界で私のことを一番大事にしてくれるのは覚くんだけ……」

 その猫なで声を聞いているだけで、吐き気がした。

 私は唇を指先でぬぐい、淹れ終えたコーヒーを手に給湯室を出る。

 少し先では、空野朱音が森原覚の腕にぴたりとしがみついていた。

 森原覚は片手をポケットに突っ込んだまま、いかにも当然という顔で立っている。

 ……ああ、そう。

 そうやって見せつけたいのね。

 私への牽制だと、すぐにわかった。

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