第6章
空野朱音の腹の内など気にも留めず、私は淹れたてのコーヒーを彼女の前へ運んだ。
「空野さん、ご注文のコーヒーです」
私の手にあるカップを見て、空野朱音が一瞬だけ動きを止める。
それから森原覚に向かって甘く微笑み、私の手元のカップへ指を伸ばした。彼女の指先がカップに触れた、その瞬間。私は手を離す。――なのに、空野朱音の手も不自然なくらいさっと引かれた。
ぱりん、と乾いた音。
せっかく丁寧に淹れたコーヒーは、そのまま床に叩きつけられた。
砕けたカップの破片が、私の足元へ飛び散る。淹れたばかりの熱いコーヒーは手の甲を伝って流れ落ち、ずきんと刺すような痛みが走った。
「っ……!」
思わず声が漏れる。慌てて目を落とせば、手の甲はもう赤くなっていた。
周囲が反応するより先に、空野朱音が大げさなくらい慌てた声を出す。
「やだ、どうしたの? そんなに不用意に手を離されたら困るわ。まだちゃんと受け取ってなかったのに」
「ごめんなさい、私が悪かったわ。本当にごめんなさい」
――白々しい。
目のついている人間なら誰だってわかる。今のは事故なんかじゃない。彼女がわざと手を引いたから、熱いコーヒーがそのまま私の手にかかったのだ。
私は痛みをこらえながら、空野朱音の隣に立つ森原覚を見上げた。
彼は無表情のまま私を一瞥し、それからすぐ空野朱音へ向き直る。
「気にしなくていい。君のせいじゃない」
「ちゃんと持っていなかったこいつが悪い。謝る必要なんてない」
その言葉を聞いた途端、空野朱音の唇に、勝者だけが浮かべる笑みが滲んだ。
口元はやわらかく吊り上がっているのに、目の奥にはあからさまな嘲りがある。
――ほらね。覚君にとって大事なのは、私だけ。
そう言われたような気がした。
ふたりのいちゃつきに付き合う気はない。私はその場を離れ、冷水で手を冷やそうと身を翻した。
すると背後から、また空野朱音の声が追いかけてくる。
「宮沢さん。あなたの淹れたコーヒー、香りはとっても良かったわ。あとでもう一杯、お願いできる?」
まるで自分がこの家の女主人であるかのような物言いだった。
ついさっき給湯室で森原覚から受けた屈辱まで蘇り、私は反射的に首を横に振る。
私は森原家の使用人ではない。仮にそうだったとしても、空野朱音みたいな部外者に好き勝手扱われる筋合いはない。
「申し訳ありません、空野さん。手を火傷してしまったので、もう淹れられません」
「森原様もお上手ですから、どうしてもお飲みになりたいなら、森原様にお願いしてください」
そう言い切ると、私は手の痛みをこらえたまま足早に冷水場へ向かった。火傷は軽く見てはいけない。すぐ冷やさなければ、水ぶくれになる。
水に手を当てていると、背後からぼんやりと空野朱音たちの声が聞こえてきた。
「覚君、新しく入ったあの子、ずいぶん気が強いのね?」
「私に失礼なのはまだいいの。私、外の人間だもの。でも、あの調子で森原のおばあさまにまで失礼を働いたら、さすがに出過ぎじゃない?」
森原覚が何と返したのかは、よく聞こえなかった。――というより、もう聞きたくもなかった。
気持ちが沈みかけた、そのとき。
給湯室の外で、白原さんが空野朱音にやんわりと退去を促す声がした。
「空野さん、申し訳ございません。奥様はご高齢で、今日はお加減も優れませんので、お客様にお会いできる状態ではないとのことです」
「体調が戻られましたら、改めて日を改めてお会いしたいと仰っております」
森原のお祖母様が空野朱音に会わない。それが何を意味するのか、私にはわからない。
けれど、空野朱音みたいな女がそれだけで引き下がるはずがないことは、よくわかっていた。
案の定、次の瞬間にはあの甘ったるい声がまた耳に入ってくる。
「覚君……おばあさま、まだ私のこと怒ってるのかなぁ?」
森原覚は辛抱強く宥める。
「そんなことない。祖母はそういう人じゃない」
「ここ数日、本当に体調が悪いだけだ。別の日に会うと言ったなら、ちゃんと会ってくれる」
彼に慰められるうちに、ほどなくして空野朱音のころころした笑い声が、また森原家の広いリビングに響き始めた。
私はしばらくの間、ずっと水を当て続けた。ようやく手の甲のひりつきが少し和らいだ頃、白原さんがそっと傍に来る。
私の手元をひと目見て、声を落とした。
「若奥様、奥様が――お部屋に来てほしいと」
私は白原さんに小さく頷く。簡単に薬を塗ってから、二階へ上がろうとした。
そのときだった。空野朱音が、またしても行く手を塞ぐ。
スマホを片手に、にこにこと笑いながら言った。
「宮沢さん、私、またおばあさまにご挨拶に来たいの。覚君、お仕事でお忙しいでしょう? あんまり手を煩わせるのも悪いし」
「LINE、交換してくれない? 今度からあなたに連絡して予定を合わせたいの。ね、いいでしょう?」
お祖母様を口実にされると、さすがに断りづらい。
私は仕方なくスマホを取り出し、彼女と連絡先を交換した。
それから、階段へ向かう。
私が空野朱音の横を通り過ぎた、その瞬間。彼女の鼻先がぴくりとわずかに動いたのが見えた。
次の瞬間には、私を見る目がすっと深くなる。
空野朱音視点
宮沢詩音が私の横を通ったとき、私ははっきり嗅ぎ取った。
森原覚の体から漂っていたのと同じ匂い。淡くて、けれど生々しい、女の体温みたいな香り。
そして私が視線を向けると、宮沢詩音は無意識みたいに襟元へ手をやり、鎖骨のあたりを隠した。
その仕草で、見えた。
鎖骨に残る、赤い痕。キスマーク。
少し驚く。
私の記憶が正しければ、十数分前に彼女を見たとき、あんなものはなかったはずだ。
ほんの短いあいだに、しかも森原家の中で、どうして急にあんな痕がつくの?
彼女が接触した男は二人しかいない。白原と、森原覚。
白原は年齢的に論外だ。あんな痕をつけるような真似をする相手じゃない。……となれば、残るのはひとり。
森原覚。
なるほど。森原覚と、この宮沢詩音という女のあいだには、表に出せない関係があるわけだ。
私が日本を離れていたこの数年、彼のそばにいたのは、きっとこの女なんでしょうね。
本来なら、腹が立って当然だと思う。けれど私が欲しいのは、そんな一時の男じゃない。
私が欲しいのは、森原家の若奥様という席だ。
宮沢詩音みたいな、通りすがりの女なんて怖くもない。ああいう女は、いずれきれいに追い出せばいいだけ。
そのためのやり方なら、いくつか心得ている。
私がじっと宮沢詩音を見ていたせいだろう。森原覚は話題を逸らしたいみたいに、私へ声をかけてきた。
「空野朱音、行こう。送る」
――へえ。私が来たばかりなのに、もう帰らせるの?
何か見られたくないものでもあるのかしら。
でも、別に構わない。ちょうどいい頃合いだった。私もそろそろ引き上げるつもりだったし、今夜は今夜で、森原覚のために用意してある『大事な計画』があるのだから。
