第9章

 森原の本宅へ戻ったとき、宮沢詩音は家の鍼灸室で祖母に鍼を打っていた。

 祖母は柔らかな寝台に横たわり、体には銀針がずらりと並ぶ。宮沢詩音はその傍らに腰を下ろし、ひとつひとつ丁寧に容体を確かめていた。白原さんは少し離れた場所で、目尻に笑みを浮かべながらその様子を見守っている。

 俺が扉を開けて入った瞬間、ふっと温かい空気が流れ込んできた。……たぶん、祖母がよく口にする「家族の団らん」ってやつだ。

 物音に気づいて祖母が顔を上げ、俺をちらりと見る。だが宮沢詩音は、俺に視線ひとつ寄越さない。まるで俺なんて最初から存在していないみたいに。

 その露骨な無視が、癇に障った。

 こんな態度を取る女なんて、今まで一人もいなかった。

 本音を言えば、今すぐにでも一発叱り飛ばしてやりたかった。だが祖母がすぐ隣に横になっている以上、くだらない怒りを表に出すわけにはいかない。名もない火を、喉の奥に押し込めた。

 俺は祖母に声をかける。

「お婆さん、腰は少し良くなった?」

 祖母は俺を睨み、顔をしかめたまま吐き捨てる。

「目がついてないのかい。詩音が鍼を打ってるのが見えないの? 良くなってたら、ここに寝てるわけないだろう!」

「孫が一番お婆さんと親しいって言うけどね。うちの孫は出来が悪いよ。孫嫁のほうがずっと立派だ」

「この孫嫁がいなかったら、私なんてとっくに灰になってたかもしれないね」

 祖母の声には、はっきりと怒りが滲んでいた。俺が空野朱音を連れてきたことに、不満があるのはわかっている。遠回しに俺を刺しているんだ――孫の俺より、宮沢詩音のほうがよほど気が利く、と。

 俺は祖母の傍まで行き、頭を下げた。

「お婆さん、ごめん。今日のことは俺が悪かった。腰のこと、ちゃんと気にしてなかった。謝る。二度と同じことはしない」

 祖母の表情が、ほんの少しだけ緩む。けれど次の一言が、胸に刺さった。

「私を気にしてるかどうかなんて、どうでもいい。大事なのは、詩音を気にしてるかどうかだよ」

「覚、お婆さんももう歳だ。いつどうなるかわからない。あんたたち、早く子どもを作っておくれ。曾孫の顔くらい、見せてくれてもいいだろう?」

 またか、と胃の奥が重くなる。催促だ。

 俺は思わず宮沢詩音を見る。だが彼女は聞こえていないみたいに、手際よく道具を片付けているだけだった。

 俺が反応しないのが気に入らないのか、祖母は焦れたように俺の背中を叩き、また怒鳴る。

「聞いてるのかい!」

「聞いてる、お婆さん……」

「じゃあ、いつ作るんだい?」

 返答に詰まった。俺は頭を掻く。離婚するつもりだなんて言ったら、祖母がどうなるか……想像しただけで背筋が冷える。

 答えられずにいると、祖母が冷たく鼻を鳴らした。

「決められないなら、私が決める。今夜作りな」

「白原。使用人たちには今夜、本宅に泊まるよう伝えな」

「決まりだよ」

 祖母は言い出したら曲げない。俺は反論できず、黙って頷くしかなかった。白原さんは嬉しそうに「かしこまりました」と下がっていく。宮沢詩音は何事もない顔で、祖母に話しかけた。

「お婆さん、今の鍼で、腰のあたりがぽかぽかしてきました?」

 さっきまで俺に険しい顔をしていた祖母が、宮沢詩音に向けた途端、ふわりと柔らかい表情になる。彼女の手を握り、優しく言った。

「するする。ずいぶん楽になったよ、詩音。この数年、あんたが鍼を打ってくれなかったら、私の腰はどうなってたことか」

「ほんと、孫より孫嫁だね」

 そう言いながら、祖母はまた俺を剜くように睨んだ。

 ……数年の契約結婚で、宮沢詩音は森原家の中に確かな居場所を作っていた。俺に好かれないなら祖母を落とす。手としては見事だ。

 だが、それで離婚を取りやめると思うな。

 祖母の褒め言葉に、宮沢詩音は控えめに首を振る。

「お婆さん、そんな。もともとお婆さんのお身体がしっかりしているから、鍼が効くんです」

「それに、覚もいつもお婆さんのことを気にしてますよ。私にも、もっと大事にするようにって……」

 その言い方のおかげで、祖母の俺への不満が少し和らいだ。俺の胸の奥も、ほんのわずかに軽くなる。

 鍼が終わると、祖母は夜食をとってから休むと言い出した。俺と宮沢詩音は付き添い、三人で夜食を口にする。

 白原さんは部屋の支度を終え、祖母と短く目配せを交わすと、静かに下がった。

 祖母が食べ終わると、宮沢詩音と使用人たちが部屋まで送り届ける。俺はリビングに残り、階段のほうを見上げて待った。

 夜九時。

 祖母の部屋から出てきた宮沢詩音は、相変わらず淡々とした顔をしていた。その表情を見た途端、俺の中で抑えていた苛立ちがふつふつと煮え上がる。

 俺は手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。

「メッセージを送っただろ。なんで家に戻らなかった」

 宮沢詩音は俺の手を振りほどき、祖母そっくりの鋭い目で睨み返してくる。

「見えなかったの? 今夜ずっとお婆さんに鍼を打ってた」

 俺は引かない。

「鍼は鍼だ。事情を言えばいいだろ。なのにお前は、俺が『不相応』だって言った」

 宮沢詩音は冷たく鼻で笑い、整った顔に反抗の色を浮かべた。

「……あなたが、相応しいと思うの?」

「森原覚。忘れたの? 離婚って言い出したのはあなた。離婚するなら、もう私があなたの欲を処理する義務なんてない」

 言い返せなかった。離婚するのは事実で、俺が彼女を欲しがっているのも事実だ。

 黙った俺を見て、宮沢詩音はさらに容赦なく刺してくる。

「高嶺の花が帰ってきたんでしょ。今夜はその人にでも抱かれれば?」

「なのに、わざわざ本宅まで戻って私を探すなんて……森原覚、ちょっと情けないんじゃない?」

 ……情けない、だと?

 森原家の一人息子で、森原財団の跡取りで、しかも俺は表に出る身だ。女に指差してそこまで罵られたのは、宮沢詩音が初めてだった。

 舐めるなよ。俺が欲しがってるからって、好き勝手言えると思うな。

 情けないなら、情けないまま見せてやる。

 俺は彼女の手首を掴み、引きずるように本宅の自室へ向かった。扉を閉めた、その瞬間――。

 下腹の奥から、どっと熱がせり上がってきた。

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