第1章

 生き返った――私は、ずっと心に焦がれていたAlphaの婚約者を、義妹に譲った。

 それを知った母ヴィヴィアンは、驚愕の顔から一転、狂喜した。

「デイモンをマヤに譲ったですって?! キラ、後悔しないでよ! あの方は狼族最強のAlphaなんだから!」

 後悔なんてしない。絶対に。

 前世の私は、そのAlphaに嫁いだ。そして彼の「決まり」の中で、まる三年、息ができないまま生きた。

 彼が求めたのは、Lunaとしての品格と優雅さ。だから私は、わざと短いスカートで満月の晩餐会に出た。

 貴族の奥方たちが輪になって、私を指さして笑った。「発情した野良Omegaみたい」と。

 そのときデイモンが歩み寄り、黙って自分のジャケットを肩に掛けてくれた。

 ――ようやく守ってくれる。

 そう信じた、次の瞬間。

「キラ、いい加減にしろ。年上連中の前で、これ以上俺の顔を潰すな」

 氷みたいに冷たい声。

 その一言で理解した。彼が愛しているのは「完璧なLuna」であって、私じゃない。

 それからの日々は、保守的なロングドレスと、煩わしい礼法のレッスン。私が反抗しようとするたびに、彼は決まって同じ言葉を吐いた。

「家の規矩だ。お前は従え」

 炎に呑まれるその瞬間まで、私は誓った。

 次の人生があるなら――この男には、絶対に嫁がない。

 目を開けたとき、私は婚約前夜に戻っていた。

「マヤに、あなたの完璧なLunaをやらせればいいわ」

 私は婚約書を押し返した。

「私は自由が欲しいの」

 ……なのに、想像していなかった。

 花嫁がすり替わったと知った瞬間、冷酷で自制の塊だったはずのAlphaは、完全に壊れた。

――

キラ視点

 婚約書の上で、自分の名前を線で消す私を見て、母は半秒だけ固まった。それから、爆発したみたいに声を張り上げる。

「正気じゃない! 相手はクリムゾン・ムーン部族のAlphaよ! 狼族で最強の血筋なのよ!」

「正気よ」

 空欄に、私は「マヤ・アシュフォード」と書き込んだ。

「これ、あなたが望んでたことでしょ?」

 母は目を見開き、その名前を凝視した。驚愕が疑念に変わり、最後には抑えきれない歓喜が滲む。

「……ほ、本当にデイモンをマヤに譲るの?」

「何、嬉しくないの?」

 私は顔を上げる。

「飛び上がって喜ぶかと思った」

「本気で言ってるの?」

 急に母の目が鋭くなる。

「デイモンはあなたの命定の伴侶よ。まさか、何か企んで――」

「企み?」

 私は鼻で笑った。

「その手の話なら、あなたの方が得意でしょ。父が死んで一か月で再婚して、七か月も経たないうちにマヤを産んだ……あ、ごめんなさい。『予定日より早かった』のよね?」

 母の顔色が、すっと白くなった。

 フロスト・ヘイヴン部族は、東海岸でも最古の部族のひとつだった。父マーカス・アシュフォードは純血のAlphaで、広大な領地を治めていた。

 けれど父は病で倒れ、母はマヤの父ヴィクター――新しいAlphaに嫁いだ。だが彼は統治が下手で、部族はみるみる傾いていった。

 そこへデイモンが、同盟の相手として私を選んだ。理由はただひとつ。

 私は、彼の命定の伴侶だったから。

「小さい頃から、あなたがマヤに使ったお金は、小部族ひとつ買えるくらいよ」

 私は淡々と言う。

「私はどう? 狼人の晩餐会のドレスでさえ、自分で貯めないと買えなかった。……これで婚約も譲った。満足したでしょ」

 母の表情が、罪悪感から、露骨な欲に塗り替わる。

「……で、あなたは何が欲しいの?」

「ストームウォッチ・リッジ」

 フロスト・ヘイヴン部族が海外に持つ領地だ。

 母が息を呑む。

「それは、あなたのお父様が残した――」

「取引する? しない?」

 迷ったのは、三秒だけだった。

「する!」

 母は婚約書をひったくるように掴むと、逃げるみたいに部屋を飛び出した。

 バタン、と扉が閉まる。

 私はその場に立ち尽くし、廊下の先へ消えていく足音を聞いた。

 フロスト・ヘイヴン部族では、何でも取引になる。娘でさえ。

 私は姿見の前に立つ。

 鏡の女は、足首までのドレス。首元は鎖骨まできっちり留められ、金髪はきれいにまとめられている。端正で、優雅で、Lunaの規範そのもの。

 前世の私は、デイモンに合わせるために、こうやって自分を作り替えた。

「……くだらない」

 鼻で笑い、私は結い紐を乱暴に引き抜いた。ぱさっ、と金髪が滝のように落ちる。

 あの忌々しいロングドレスを放り投げ、クローゼットの奥から黒いレザースカートを引っ張り出す。裾は太ももの付け根ぎりぎり。血みたいに赤いキャミソールに、スタッズ付きのロングブーツ。

 鏡の中の女は、別の魂を宿したみたいだった。野性、危うさ、そして息が止まるほどの色気。

 完璧なLunaなんて、知るか。

 私はストームウォッチ・リッジ行きの航空券を押さえ、バイクのキーを掴んで飛び出した。

 部族の警備が呆然とする。未来のLunaが、バイクに跨る姿なんて見たことがないのだろう。

 Lunaなんて、知るか。

 スロットルを捻り切り、私は一直線にスカーレット・ファングへ向かった。ニューヨークで最も悪名高い、狼人のアンダーグラウンド・クラブ。

――

 重低音が床を震わせ、血のような赤いライトが闇の中で跳ねる。

 空気は酒と汗と、さまざまな匂いが混じり合っていた。Alphaのムスク、Betaのタバコ、甘ったるいOmegaの香水。

 ステージでは上半身裸の狼人ダンサーが、リズムに合わせて腰を振る。ネオンの下で筋肉が艶めく。

 扉を押し開けた瞬間、視線が一斉に刺さった。

 フロスト・ヘイヴン部族の令嬢。クリムゾン・ムーン部族の未来のLuna。その私が、こんな場所にいる。

「一番きつい酒を!」

 私は5,000円札の束をカウンターに叩きつける。

「今夜は貸し切り! 一番エロい狼を全部呼んで!」

 バーテンダーの手が震え、ボトルを落としそうになる。

 片目のオーナー、ブルーノがバックヤードから飛び出してきた。顔面蒼白だ。

「キラお嬢様! お願いです、やめてください! 北の狼人界隈は、あなたがクリムゾン・ムーンの未来のLunaだって知ってる! あのAlphaに――殺されます!」

 私はテキーラを一杯、喉へ流し込む。灼けるような熱が、内側から駆け上がった。

「落ち着いて、ブルーノ。婚約は破談よ。今日から私は、金で遊ぶだけの普通の客」

「破談?!」

 ブルーノが噛みつくように叫ぶ。

「冗談でしょう? 街中が噂してますよ、デイモンがあなたのためにムーンストーンの指輪を特注したって! 命定の伴侶だけが着けられる――」

「もう過去の話」

 私の声が、すっと冷える。

「彼の欲しいLunaは、上品で、優雅で、部族の伝統に従って、永遠に彼の顔を潰さない女」

 私はもう一口、酒を呷った。

「私はもう嫌。飾り人形なんて。朝起きるたびに『今日は何をしたらあの人が不機嫌になる?』って考えるのも。自分をあの息苦しい規矩に押し込めるのも」

 ブルーノは口を開けたまま、結局、何も言えなかった。

 筋骨隆々の狼人ダンサーが三人、寄ってくる。ネオンを浴びた筋肉が光り、飢えた目が私を舐めた。

 私はそのうちの一人の胸板に手を当てる。熱い肌。強いフェロモン。

 体内の狼が唸る――欲じゃない。復讐の快楽だ。

 デイモンが一番嫌う「ふしだら」。

 それでいい。

「ねえ、ベイビー」

 若いダンサーが耳元へ寄せ、低く甘く囁く。

「上で――」

「誰がベイビーだ」

 背後から、冷たく、致命的な声が落ちてきた。

 全身の毛が逆立つ感覚。

 ……最悪。

 クラブ中の狼人が、同時に凍りついた。Alphaの威圧が、津波みたいに押し寄せる。冷たいモミの香り、革の匂い、そして圧倒的な権威。

 私はゆっくり振り返った。

 入口に立っていたのは、デイモン・ブラックソーン。背後には完全武装の護衛が六人。

 陰鬱な顔。琥珀色の眼が、私を射抜く――正確には、ダンサーの胸に置いたままの私の手を。

 狼人たちが恐怖に頭を垂れる。

 私以外は。

 体内の狼が狂ったように吠えた。屈服したい、跪きたい。命定の伴侶の引力が、私を引き裂きそうになる。

 それでも歯を食いしばり、必死に押し殺す。

 私は顎を上げ、いちばん挑発的な声で言った。

「あなたに関係ある?」

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