第2章
キラ視点
デイモンの顔色が、さらに暗く沈んだ。
彼が手を上げる。――くそ、殴られる?
反射的に半歩引いた。体内の狼が低く唸る。けれどあのクズは、背後の護衛からコートを受け取ると、それをそのまま私に叩きつけてきただけだった。
「着ろ」
氷みたいに冷たい声。
「私、い――」
「着ろ」
二度目は命令だった。疑う余地なんて、最初からない。
私は睨みつけながらも、コートを掴んで肩に掛ける。……くそったれ。アルファの威圧。
それからデイモンは、腰を抜かしたままのダンサーに視線を向けた。
「失せろ」
その瞬間、三人の顔から血の気が引いた。踵を返し、出口へ向かって一目散に駆け出す。
「待って!」私は叫んだ。
「帰らないで! こっちは金払ったの! あんたた――」
言い終える前に、熱い大きな手が私のうなじを掴んだ。――狼人が獲物を支配する、あの仕草。
体内の狼が一気に力を抜き、降伏の鳴き声を漏らす。
だめだ。私は歯を食いしばり、必死に意識を繋ぎ止める。
「あなた――」
もう片方の手が腰を抱えた。次の瞬間、私は米俵みたいに肩に担ぎ上げられていた。
「デイモン! 頭おかしいの?! 下ろせ!」
背中を殴って、蹴って、暴れても、びくともしない。拳がぶつかる感触は、花崗岩そのものだった。
「これがどんだけ恥ずかしいと思ってんの?!」私は喚いた。
「下ろして!」
「恥?」デイモンの声が、骨まで凍らせる。
「さっきおまえがやってたことは、恥じゃないのか」
「自分の金で遊んで何が悪い! あんたに関係ある?!」
「おまえは俺の婚約者だ」
「違う! 私は――」
手が、ぐっと締まった。痛みで息が詰まる。
「黙れ」
彼はそのまま私を担いでクラブを出ると、路肩に停めてあった黒いロールスロイスへ放り込んだ。ドアがバン、と重く閉まる。
「出せ」
冷たい指示。
「承知しました、アルファ」
車が乱暴に発進した。私はすぐに身を捻り、ドアノブへ手を伸ばして逃げようとする。
デイモンは止めることすらしない。のんびり袖を整えながら言った。
「無駄だ。防弾仕様、チャイルドロックもかけてある。開けられると思うか?」
私は睨み返す。
彼もまっすぐ見返してきた。闇の中、琥珀色の瞳が危険に光る。
「どうしてそんなことできるのよ?!」私は吠えた。
デイモンは鼻で笑い、助手席の護衛――コールへ視線を投げる。
「読め。ルナの規則だ」
コールが咳払いをして、小冊子を取り出した。
「第三条。ルナは酒場、賭場、ならびに部族の名誉を損なう恐れのある場所への立ち入りを禁ずる。第十二条。ルナは婚約関係にない雄の狼人と単独で接触してはならない。第十五条。ルナは常に――」
「もういい! 黙って!」私は鋭く遮った。
「そんなくだらない規則、私に関係ないでしょ?!」
「関係ない?」デイモンがこちらを向く。目が危ない色をしていた。
「おまえは婚約書に署名した」
「それが何よ?!」震える声のまま、私は食い下がる。
「その婚約が私に何の得になるの?! あんたみたいな支配欲の塊、絶対に嫁がない!」
――沈黙。
車内の空気が、一瞬で抜け落ちたみたいに冷えた。
デイモンがゆっくり首を回し、底の見えない目で私を見つめた。長い、長い沈黙。獣が息を潜める前の、あの間。
「……今、なんて言った?」
声は小さい。なのに背筋が総毛立つ。体内の狼が狂ったように警鐘を鳴らす――危険。危険。逃げろ。
やばい。私、何を――。
デイモンが婚約のすり替えを知ったら。花嫁がマヤに変わってるって気づいたら。私は、飛行機に乗る前に終わる。
「……ただ、ムカついてたの」私は視線を逸らし、ぼそりと呟いた。
「言い方、間違えただけ。そういう意味じゃない」
デイモンは、まだ私を見ていた。長すぎるほどに。見透かされるんじゃないかと、心臓が喉に張りつく。
「……そういう意味じゃないといい」
やっと視線を外し、背もたれに身を沈める。
「オーダーメイドのウェディングドレスが届いた。数日中に時間を作る。試着に付き合う」
「私、い――」
「相談じゃない」
切り捨てるような声。
「最近は大人しくしてろ。俺に探させるな」
私は顔を背け、窓の外へ流れる街の灯りを眺めた。
ドレス? 誰がそんなの欲しがるっていうの。いったい誰が、この結婚式をやりたがってるのよ。
車内は、息が詰まる沈黙に支配された。
――
ロールスロイスは、やがて部族の門前で止まった。
でもデイモンはそこで帰らない。信じられないことに、私を「護送」するみたいに中へ連れ込み、そのまま部屋の前までついてきた。
「最近はうろつくな」淡々と言う。
「見張りをつける。明日の夜7時、迎えに来る。満月の晩餐会だ」
「婚約者なの? それとも看守?!」私は怒鳴った。
「支配欲の化け物! 暴君! 独裁者!」
「好きに呼べ」
デイモンは表情ひとつ変えない。
「ただし規則は守れ」
「規則なんて知るか!」
「キラ――」
声が危険な低さへ落ちた。瞳に金が滲む。狼が暴走する前触れ。
私の狼も喉を鳴らし、反抗を叫ぶ。戦え、と。
「キラ」
そこへ、甘く優しい声が割り込んだ。
マヤが廊下の向こうから歩いてくる。控えめな膝丈のワンピース、真珠のネックレス。黒髪は艶やかに肩へ流れ落ちていた。
微笑みながら、穏やかな声で言う。
「またデイモンに心配かけたのね」
