第3章
キラの視点
鼻で笑ってやった。はいはい、また始まった。
マヤはデイモンを見上げ、顔いっぱいに申し訳なさを滲ませる。
「本当にごめんなさい、デイモン。姉は小さいころからこうで……細かいことを気にしないんです。私から謝ります」
デイモンは数秒沈黙し、それからこちらへ顔を向けた。
その目つきは、嫌というほど知っている。失望。倦怠。そこに混じる、ほんのわずかな疲れ。前の人生でも、私が「恥をかかせた」あと、いつもそういう目で見た。
「同じアシュフォード家の娘なのに」
声は軽い。けれど刃みたいに刺さる。
「どうしてマヤを見習えない?」
白目をむきたくなる衝動を必死で飲み込む。見習う? 何を。演技を?
「もういい」デイモンは眉間を揉んだ。
「明日の満月晩餐会、お前は必ず出ろ。きちんと準備しろ」
「行かない」即答した。
「マヤを連れていけばいいじゃない。そっちのほうが、あなたの基準に合ってる」
「キラ」眉を寄せる。
「大人になれ。お前はクリムゾン・ムーン部族の未来のルナだ。責任がある」
責任。
その言葉が、氷の錐みたいに心臓へ突き立った。そう、責任。私が選ばれたのは、運命の番の縛りがあるから。婚約があるから。愛? そんなものとは、最初から無関係だ。
「だったら私を連れていかなきゃいい」私は冷たく笑う。
「マヤのほうが相応しいでしょ。あなたの理想の『完璧なルナ』の見本なんだから」
デイモンの顔が一瞬で鉄みたいに強張る。
「お前——」
「デイモン」マヤがふっと割って入った。声はどこまでも柔らかい。
「姉は正式な晩餐会に慣れていないのかもしれません。私が一緒に付き添いましょうか? もし失礼があっても、すぐにお伝えできますし」
デイモンは少し黙り、頷いた。
「……頼む」
「いえいえ」マヤは甘く笑う。
「キラは家族ですから」
二人の息の合ったやり取りを見ていると、胸の奥がひどく滑稽に冷えていく。
「じゃあ、そういうことだ」デイモンは最後に私を一瞥し、踵を返した。
足音が廊下の奥へ消える。
ドアを閉めようとした瞬間、マヤがすっと割り込んできた。バン、と扉が閉まる。同時に、顔の「優しさ」が霧みたいに消えた。
「言いなさい」冷たい視線が刺さる。
「何を企んでるの? どうして急にデイモンを私に譲るみたいな真似をしたの」
私はクローゼットにもたれ、口角を吊り上げる。
「だって、あんたたち同類でしょ。跪いて生きるのが好き。あいつは一族の伝統に跪いて、あんたはあいつの足元に跪く。お似合い」
マヤの顔がみるみる青くなる。
「……あなた——」
「違った?」
「小手先で何かが変わると思わないで」歯ぎしり混じりに吐き捨てる。
「花嫁が私に替わるって知ったら、デイモンは安心するだけよ。やっとあなたみたいな厄介者を我慢しなくていいってね。基本の礼儀も知らない野良のオメガが、彼に釣り合うわけない」
「へえ?」私は笑った。
「じゃあ、今すぐ言えば? どうして言わないの」
マヤが固まる。
「黙っちゃった。不安なの? それとも、目の前で断られるのが怖い?」
「黙りなさい!」マヤの声が甲高く弾けた。
「彼は私に感謝するわ! 結婚式の日に驚かせたいだけ! だから余計なことをして、私の計画を壊さないで!」
「安心して」肩をすくめた。
「好きに遊べば。興味ない」
マヤは私を憎々しげに睨みつけ、踵を返して出て行った。
——
満月晩餐会
翌晩、クリムゾン・ムーン部族の大広間は眩い灯りで満ちていた。
私は深いVネックの血のように赤いドレスで姿を現した。スリットは太腿の付け根まで。周囲の保守的なロングドレスの中で、嫌でも目を引く。
デイモンが近づいてくる。視線が私のドレスをなぞった瞬間、眉がきつく寄った。
「着替えろ」冷ややかに言う。
「着替えない」顎を上げる。
「私はこれでいいと思ってる」
数秒、睨み合う。デイモンが息を吸い込んだ。
「キラ、ここは正式な場だ——」
「知ってる。だからちゃんとドレス着てきた。何? まだ足りない?」
デイモンは明らかに怒りを押し殺していた。
「好きにしろ」吐き捨てる。
「他部族のアルファに挨拶させるつもりだったが……やめだ。お前は一人で大人しくしてろ。余計な恥を晒すな」
言い終えると、彼はマヤのほうへ向かった。
デイモンがマヤの手を取り、来賓席へエスコートする。部族の長老たちへ紹介する動きは自然で、親密で——まるで本物の婚約者にするみたいに。
周囲から、ひそひそ声が立つ。
「長女は? なんでアルファが妹を連れてるの?」
「見れば分かるでしょ。姉のほうが体裁悪いんだよ」
「金髪の子、『嚎月礼』もできないって聞いた。恥さらしだよね」
デイモンは噂話など意に介さず、マヤの酒をさりげなく遮ってまで守っていた。
私はその場に立ち尽くし、全部を眺めた。
前の人生、私は必死でマヤみたいになろうとした。従順に。おとなしく。規則の枠に、ぴたりと収まるように。
それでどうなった? 結局、愛されなかった。
だから今世は——知るか。
私は背を向け、大広間を出て庭へ向かった。
夜風は冷たい。でも中の偽りの笑顔より、ずっとましだ。私はヒールを脱ぎ、裸足で芝を踏む。ひやりとした感触が、私を生かしてくれる。
遠くで巨大な篝火がごうごうと燃え、火の粉が夜空を赤く染めていた。
「ここで傷でも舐めてるの? キラ」
背後からマヤの声。骨まで凍るような嘲り。
振り返らない。
「中で舞台続ければ?」
「ちょっと見に来ただけよ」マヤが私の正面へ回り込む。頬は酒で薄く染まり、目には剥き出しの悪意が宿っている。
「負け犬がどんな顔をしてるのかね」
「負け犬?」私は冷笑した。
「それ、私のこと言ってる?」
「もちろん」マヤは得意げに笑う。
「さっきデイモンが私をどう褒めたか知ってる? 優雅で、品があって、完璧なルナ候補だって」
「よかったじゃない。欲しいもの、全部手に入れた」
「そう、手に入れた」マヤがぐっと近づき、声を落とす。
「ちょうど昔、私の父があなたの母を手に入れたみたいにね」
拳がきゅっと固くなる。
「怒った?」マヤはさらに愉しそうに笑う。
「でも残念。昔だって、あなたの父はうちの父に勝てなかった。今だって、あなたは私に勝てない。生まれつきの負け組なのよ」
「ふざけんな、黙れ!」
その瞬間、マヤが突然悲鳴を上げ、体勢を崩して後ろへ倒れた——
燃え盛る巨大な篝火へ、まっすぐ。
火柱が跳ね上がり、周囲がどっと悲鳴を上げる。
デイモンが人混みを割って飛び出し、マヤの腕を掴んで引き戻した。だが動きが荒すぎたせいで、腕が火の縁をかすめる。じゅっ、と焦げた皮膚の匂いが立った。
マヤは雪の上に尻もちをつき、スカートの裾には火の粉で焦げ穴がいくつも開いていた。顔を覆って号泣する。
「押したの! キラが私を火に突き落として焼き殺そうとしたの!」
デイモンはマヤを支え、顔を上げて私を見た。
凍りつくほど冷たい目。
「キラ」一語一語、叩きつけるように。
「来い。マヤに謝れ」
呆然とする。
「……何言ってるの。私は触ってもいない!」
「見た」デイモンの声は宣告だった。
「お前はあいつの後ろに立っていた」
「後ろに立ってたら、押したことになるの?」信じられない。
「デイモン、確認もしないの?」
「何を確認する?」薄く笑う。
「マヤに嫉妬した理由か? 他人が幸せなのが気に食わない理由か?」
「私はあなたの婚約者よ!」叫んだ。
「だからこそだ」デイモンの声はさらに冷える。
「お前を甘やかすわけにはいかない。最後の機会だ——謝れ」
私は唇を噛みしめ、目に怒りの火を宿す。
「謝らない。私は何もしてない」
デイモンの表情が、完全に沈んだ。
彼は傍らの護衛へ目をやり、冷たく命じた。
「裏庭の火籠へ連れて行け。閉じ込めろ」
