第4章

 くそっ。

 護衛が乱暴にわたしを裏庭へ引きずっていく。必死に暴れて、罵っても、無駄だった。

「離して! デイモン! このクソ野郎!」

 彼は振り返りもしない。マヤを抱き寄せたままホールへ入っていった。

 裏庭は闇に沈み、中央には鉄の檻が据えられている――クリムゾン・ムーン部族が、過ちを犯した狼人を罰するための場所。檻の四方には巨大な火鉢が四つ並んでいた。

 護衛はわたしを檻の中へ突き飛ばし、鉄錠がカチャリと音を立てて掛かる。

「アルファの命令だ」護衛は一つ目の火鉢に火を入れ、橙赤の炎を一気に立ち上がらせる。

「夜が明けるまで、出すなってさ」

 二つ目、三つ目、四つ目――火鉢が順に点される。

 四方から熱気が押し寄せ、鉄格子はじりじりと焼けていく。わたしは中央で身を縮めた。汗があっという間に服を濡らす。

 揺れる火が視界を刺し、熱く、息を奪う。

 朦朧とする意識の中で、わたしは前世に引き戻される――すべてを呑み込んだ、あの大火事。黒い煙がうねり、虫の息で床に転がるわたしの耳に、デイモンが駆け込んでくる足音が届いた。助けに来てくれたんだ、と信じた。

 けれど彼は、反対側に倒れていたマヤへ一直線に走り、彼女を抱き上げて外へ飛び出した。

 炎に呑まれる直前、最後に見えたのは――彼女を抱いて去っていく背中。

「……もう、二度と……」わたしは掠れ声でつぶやく。涙が汗に混じり、頬を伝った。

 時間が、じわじわと削れていく。熱で呼吸が浅くなり、意識が遠のく。

 護衛が落ち着かない手つきで携帯を取り出す。

「アルファ、顔色が……このままだとまずいです。何か起きます」

 返ってきたのは、凍るような声だった。

「止めろと命じた? 続けろ。痛い目を見せないと、あの子は一生、規律を覚えない」

 護衛は火鉢へ薪をさらに放り込んだ。

 わたしは目を閉じ――ついに、落ちた。

―――

 次に目を開けたとき、わたしは柔らかなベッドに横たわっていた。冷房の風が熱を追い払っているのに、皮膚に残る火傷がずきずきと痛む。

「起きたか?」

 隣からデイモンの声。

 起き上がろうとすると、肩を押さえられる。

「動くな。薬を塗る」

「あなたの偽善なんていらない」わたしは彼の手を避ける。

「キラ」デイモンは眉を寄せ、珍しく疲れたような――ほんの少しの諦めを滲ませた。

「ふざけるな。傷はすぐ処置しないと跡が残る」

「残ればいい」わたしは冷たく笑う。

「どうせ、あなたが大事なのはわたしじゃない」

 デイモンは数秒黙り、それから強引にわたしの腕を掴んだ。

「大人しくしろ」

 なのに、薬を塗る手つきは異様なほど優しい。綿棒に軟膏を含ませ、腕と頬の火傷へ、そっと、そっと置いていく。

 横顔を見つめていると、また前世が滲んだ。あの頃も彼はこうして傷を手当てし、そのあと何事もなかったように「規律を守れ」と言った。

「三日後が婚礼だ」デイモンは手を止めずに言う。

「それまでに治せ。お前は俺の婚約者だ。傷を抱えたまま儀式に立たせるわけにはいかない」

 わたしは疲れ切ったまま目を閉じる。

「……放して。デイモン」

「俺の婚約者だ。どこへ行く」

「あなたの目に入らない場所なら、どこでも」

 彼の手が一瞬止まった。顔色が険しくなる。でも、何も言わず、また薬を塗り続けた。

 その優しさが、かえってわたしを醒めさせる。彼の優しさは愛じゃない。責任だ。彼は婚礼に、無傷のルナを立たせたいだけ――それだけ。

 不意にチャイムが鳴った。

 マヤが入ってくる。保温容器を提げ、目元を赤く腫らして。

「デイモン……お姉ちゃんが心配で。あんなことをしたけど、でも、わたしたち姉妹だもの……スープ、煮てきたの」

 わたしはベッドを降り、彼女の前へ歩み寄る。冷えた視線で睨みつけた。

「芝居は終わり?」

 マヤの目から、たちまち涙が溢れる。

「お姉ちゃん……わたし、本当に心配で……」

「心配?」わたしは笑い、身をかがめて彼女の耳元へ囁いた。

「マヤ。これ以上、わたしを吐き気で汚すなら――誓う。婚礼会場に乗り込んで、みんなの前でデイモンに真実を話す。そうなったら、あなたは一生、日の当たらない浮気相手でしかいられない」

 マヤの顔から血の気が引いた。

「キラ!」デイモンが眉をひそめる。

「何を言ってる?!」

「別に」わたしは背を向ける。

 デイモンが手首を掴んだ。

「待て――」

「触るな!」力任せに振り払う。

 彼は体勢を崩し、後ろへよろけて玄関の棚へ激突した。ガシャガシャッと音を立てて写真立てと花瓶が落ち、ガラスの花瓶が床で砕け散る。鋭い破片がデイモンの額を切り、血がにじみ出た。

「デイモン!」マヤが悲鳴を上げる。

 デイモンはほとんど反射でマヤへ飛び、体で庇った。

 護衛が駆け込んできて、わたしを乱暴に突き飛ばす。壁際へ叩きつけられ、後頭部が鈍く打たれた。視界がふっと暗くなる。

 マヤが金切り声で泣き叫ぶ。

「キラ・アシュフォード! あんたは狂ってる! 小さい頃からずっと! デイモンがわたしを守って怪我したのも、全部あんたのせい! 疫病神! 悪魔!」

「……もういい」デイモンは額を押さえ、弱々しいのに冷たさを失わない声で言った。

「マヤ、やめろ」

 彼はわたしを見た。怒り、失望――そして、言葉にできない何かが混ざった複雑な目。

「三日後の婚礼、必ず来い。命令だ」

 わたしは壁に手をついて立ち上がり、何も言わずに玄関へ向かう。

 マヤが追いすがり、手を振り上げた。だが、わたしはその手首を掴み、力いっぱい弾き飛ばす。

「デイモンから離れなさいよ」マヤは歯を食いしばる。

「いい? これからは、わたしがクリムゾン・ムーン部族の女主人なんだから!」

 歪んだ顔を見つめて、わたしは不意に笑ってしまった。

「それはよかった。末永くお幸せに」

―――

 三日後の朝。フロスト・ヘイヴン部族は明かりに満ち、屋敷は慌ただしく息づいていた。

 誰もが婚礼の支度に追われ、わたしがスーツケースを引きながら静かに階段を下りることに、誰ひとり気づかない。

 帽子とマスクをつけ、二つの人生でわたしを閉じ込めた家を最後に一度だけ振り返る。そして、振り返らずに外へ出た。

 門前にタクシーが停まっている。乗り込んだその瞬間、街角から一列の高級車が曲がってくるのが見えた――花嫁を迎えに来た車列だ。

 ロールスロイスがゆっくりとアシュフォード家の前に滑り込む。

 デイモンが降り立った。大きな赤い薔薇の花束を抱え、仕立てのいいスーツに身を包む。額の傷は包帯で覆われていても、その体格と威圧は変わらない。

 アシュフォード家の扉が開き、白いウェディングドレスの影が現れた。幾重ものヴェールが顔を隠している。

 ――マヤだ。

 デイモンは前へ進み、片膝をついて薔薇を差し出した。彼の瞳は柔らかく、深く――わたしが一度も見たことのない表情だった。

 運転手が訊く。

「お嬢さん、どちらへ?」

 わたしは視線を引き戻し、口元だけをほどくように笑った。

「空港へ」

 車が走り出し、景色が遠ざかっていく。

 バックミラー越しに、デイモンが花嫁の手を取って高級車へ乗り込むのが見えた。光も、笑い声も、祝福も――あらゆる美しいものが、もうわたしとは無縁だ。

 けれど。

 わたしは、ようやく自由になった。

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