第008話デッドリーエンカウンター
黄昏が街に降りてくると、スターライト・クラブは夜の律動に合わせてざわめき始めた。
エリックはカウンターに腰を下ろし、グラスを傾けながら、向かい側――バーカウンターの内側に立つ妖艶な女から目を離せずにいた。
「情報が欲しい。ニューヨーク大学の二年生、ケイデンのことだ」
そう言って、磨き上げられたカウンターの上を、札束をすっと滑らせる。
カウンターの女は、ワインレッドの波打つ髪を揺らし、千の秘密を宿したかのような視線でこちらを見た。濃いまつげに縁取られた目、艶やかな唇――その一つひとつが、息を呑むほどに人を誘惑する。喧噪の渦のただ中で、彼女はまるで男たちの神経を掻き立てる人魚のようだった。
昨日もエリックは、この女を使って情報を取った。パワー・グループのニューヨーク支部の動きを探るために。
「また来たのね、いい男。まずは一杯。情報はそのあと持ってくるわ」
女は札束を受け取って微笑んだ。
エリックは黙ってうなずき、酒を飲みながら待った。今日、ケイデンを痛めつけた以上、向こうが黙っているはずがない。報復は必ず来る。相手を知り、打つ手を組み立てておく必要があった。
十分ほどして、女が戻ってくる。
ケイデン――ニューヨーク大学の学生。性格は傲慢で、典型的な二世の金持ちだという。父親はディエゴ・トーマス。ニューヨーク・フローリッシング建材会社のオーナーで、資産は十億ドル近い。しかもその会社は、パワー・グループのニューヨーク支部に建材を供給する主要取引先の一つだった。
「面白いな……」
エリックは資料に目を走らせ、口元に笑みを浮かべた。ケイデンの家の会社が、ここまで自分の会社の取引と絡んでいるとは思っていなかった。
彼は顔を上げ、女に視線を戻す。
「なあ、きれいなお姉さん。ひとつ聞いていいか。パワー・グループがケイデンの会社と取引を切ったら、どうなる?」
女は肩をすくめるようにして答えた。
「致命的よ。あの会社、パワー・グループがなければ生きていけない、と言ってもいいくらい」
「そうか」
エリックの笑みはさらに深くなり、頭の中でいくつもの手が組み上がっていく。
女は魅惑的に笑った。
「ねえ、ハンサム。あたしのことはヘッダって呼ばれてるの。よかったら、あなたもそう呼んで」
「もちろんだ、ヘッダ」
エリックは丁寧に返した。
「じゃあ、若い紳士さん。あなたのお名前は?」
エリックは、ひどく目立たない貧相な少年に見えた。身につけている服も安物と見間違えられてもおかしくない。だが、ヘッダは好奇心に目をきらめかせた。飾り気のない風体とつつましい身なりに反して、情報を求めるときのエリックは気前がよかった。その太っ腹さが、かえってヘッダに――この男は一筋縄ではいかない――と思わせたのだ。
彼は残りの酒を一息にあおり、答える前に言った。「エリック」
ヘッダはその名に聞き覚えがなかった。ニューヨークの名士録を頭の中でめくるようにしても、どこにも引っかからない。「この酒、いくら?」エリックが空になったグラスをカウンターに置きながら尋ねた。
「これはおごりよ」ヘッダは笑みを戻して答えた。
「ありがと」エリックは立ち上がり、席を離れて出口へ向かった。彼は酒場が特別好きというわけではない。だが、用は足りる。
そのとき、出口へ進む途中で見覚えのある姿が目に入った。「シャロン!」と思わず声が出た。カウンターの上で歌っている女の子――それは他でもない、クラス委員長のシャロンだった。
シャロンの姿は、今日の午後の出来事を鮮やかによみがえらせた。ケイデンが殴りかかろうとして、シャロンが割って入った、あの一件だ。
「なんでここで歌ってんだよ!?」エリックは思わず口にした。エリックの中のシャロンは、物静かで勉強一筋、口数の少ない優等生だった。ところが今、彼女は酒場で歌っている。目の前の光景は、彼の抱いていた彼女像をあっさり打ち砕いた。
あの顔立ちと声がまぎれもなく同じでなければ、見間違いだと疑ったかもしれない。「歌、うまいな……」とエリックは心の中でつぶやいた。シャロンが勉強ができて声がきれいなのは知っていたが、ここまで美しく歌えるとは思わなかった。
その歌声に新たな敬意を抱き、エリックはステージへ向き直った。シャロンのいる場所へ、ステージ下の人だかりをかき分けて進んでいく。
客は若い連中が多く、ステージ上のシャロンに向けて下品なヤジを飛ばす者もいた。もっとも、その大半は鬱憤晴らしの類で、本気で騒ぎを起こす者はいない。ここは顔の利く連中に守られている場所だ。普通の人間が下手な真似をできるはずがなかった。
曲が終わり、シャロンがステージを降りようとしたところで、エリックは進路を塞いだ。今日の彼女は化粧をしていて、それが美しさを際立たせていた。間近で見ると、普段よりいっそう目を引く。
「クラス委員長のシャロンじゃないか。こんなところで会うなんて、偶然だな」エリックは気軽な調子で言った。
エリックを見た瞬間、シャロンの目に一瞬の動揺が走った。「あ……あなた、人違いじゃない? わ、私はシャロンじゃないわ」彼女は視線をそらし、しどろもどろに言い逃れた。
シャロンは、学校から少し離れたこの店をわざわざ選んでいた。クラスメイトに会わないためだ。それなのに、知り合いに遭ってしまうとは思ってもみなかった。
「委員長。顔が似てるのも、声が似てるのも、偶然って言い張れるかもしれない。でも、鎖骨のほくろの位置までまったく同じってのは、さすがに偶然じゃないだろ?」エリックは笑った。
そう言って、彼はすべてお見通しだと言わんばかりの笑みを浮かべた。不意を突かれたシャロンは、どう返せばいいのかわからず、ためらってしまう。
「シャロン、俺たちの学級委員のシャロン。今日の午後、教室で俺をかばってくれただろ。ちゃんと礼を言う機会がなかった。感謝のしるしに、一杯ごちそうさせてくれないか」エリックはそう持ちかけた。
彼はシャロンと話し、なぜこんな場所で歌っているのか、その理由を探るつもりだった。直感が告げていたのだ。彼女は決して素行の悪い女の子ではない。きっと何か事情があるのだ、と。
「エリック、お酒はいいわ。私、飲まないの。もし本当にお礼をしたいなら……ここにいること、ここで歌っていることを、誰にも言わないって約束して。お願い、できる?」彼女は懇願した。
「安心してくれ。俺は噂話が好きな人間じゃない。ただ、どうしてここで歌うことにしたのか、それが気になるだけだ。君のことを悪い子だなんて思ってない」エリックはそう言って彼女を落ち着かせた。
シャロンはうつむき、小さく呟いた。
「お金が必要なの」
「金に困ってるなら、アルバイトだってあるだろ。どうしてわざわざここで歌うんだ。ここがどんな場所か、わかってるはずだ。君みたいにきれいな子には危ない」エリックは諭すように言った。
「いいえ、ここは安全よ。守ってくれる人がいるし、普通の人はここでは騒ぎを起こせないの。心配してくれてありがとう」シャロンは顔を上げて答えた。
そのとき、スーツ姿の男がこちらへ歩いてきた。
「マネージャー!」シャロンは慌てて声をかけた。どうやら彼はこの店の責任者らしい。スーツの男はエリックをちらりと見やり、シャロンに向き直って命じた。「まだこんなところにいたのか。化粧を直してこい。次の出番の準備だ!」
シャロンはうなずき、マネージャーの後について店の奥へ入ろうとした。
「待て!」エリックが呼び止める。「彼女はもう歌わない!」
マネージャーは眉をひそめ、不機嫌そうに言い返した。「おい、ガキ。お前が決めることじゃないだろ。歌うかどうかを、お前が指図できると思ってんのか?」
「マネージャー、この人は私のクラスメイトなの。お、怒らないで」シャロンが慌てて間に入った。
「クラスメイト? シャロン、こいつ彼氏か? だからここで歌わせたくないってわけか?」マネージャーはエリックを値踏みするように見ながら言った。そして嘲るように吐き捨てる。「貧乏人にしか見えねえ。失せろ!」
「貧乏人だと?」エリックは冷たく笑った。
エリックは分厚い札束を取り出し、マネージャーに叩きつけるように放った。札は床に散らばった。「これで今夜、彼女を黙らせるには十分か?!」エリックの声が響く。その金を見たマネージャーは一瞬、言葉を失った。
エリックはさらに別の札束を取り出し、今度は容赦なくマネージャーに叩きつけた。紙幣がまた床一面に散った。
「今夜、あいつに歌わせないためには、これで足りるのか!?」エリックの怒号が店内に響いた。
差し出された札束を見て、マネージャーは一瞬、呆気にとられた。
エリックはさらにもう一束取り出すと、それを叩きつけるようにしてマネージャーへ投げつけ、声を張り上げた。「さあ、これで足りるか!?」
「……!?」マネージャーはごくりと唾を飲み込んだ。額が桁違いだ。おそらく数万……いや、もっとかもしれない。それを平然と取り出し、人に向かって投げるなど、今まで見たことがない客だった。
エリックはまたしても別の札束を引き抜き、容赦なくマネージャーの顔に叩きつけるように押し当てて、冷然と言い放った。「聞いている。足りるのか!?」
「……!? た、足ります……足ります!」マネージャーは慌てて何度も頷いた。
彼も馬鹿ではない。こんなふうに金を人に投げつける男が、ただの人間なはずがない。背後にとんでもない後ろ盾があるのだろう。下手に逆らえる相手ではなかった。
それに、床にはまだ相当な札が散らばっている。
「足りるなら、金を持って消えろ!」エリックは吐き捨てるように命じると、シャロンの手を引いて店を出た。
シャロンはまだ少し、夢見心地のままだった。
「エリック、どうして……どうしてそんなにお金を持ってるの? 何か悪いこと、してないよね……?」シャロンにとって、エリックは裕福とは程遠い家庭の子だった。ここ二学期、奨学金の申請までしていたはずだ。それなのに、どうして急にこんな大金が出てくるのか。
「もし俺が、ショーン・ウィリアムズの孫だって言ったら、信じる?」エリックは笑った。
「パワー・グループのショーン・ウィリアムズ? そんなの、信じられないよ」シャロンは疑わしげに答えた。
「信じられないのも当然だ。俺だって、まだ信じきれてない。宝くじでも当たったと思ってくれ」エリックは肩をすくめた。
エリックはさらに二万ドルを取り出してシャロンに差し出し、「このお金を受け取って。これからは、こんな場所で歌うのはやめろ」と言った。
「……」シャロンは首を振った。「だめ、だめ! 私たち、ただの同級生だよ。こんなお金、しかもこんな大金、受け取れない」
「いいんだ。君はいい子だ。こんなところの金に、ましてや金のために汚される必要なんてない」エリックはそう言って、札束をシャロンの手に押し込んだ。
「安心しろ、誰にも言わない。じゃあ、俺は行く」エリックは微笑み、背を向けて歩き出した。
「エリック……」シャロンは遠ざかる背中を見つめ、それから手の中の二万ドルに目を落とした。頭の中が混乱したまま――。
第九章 金のための倫理
バーを出たエリックは車を拾おうとしながら、これだけ金があるなら車を買うべきだ、と心の中で思った。
男なら誰しも車に憧れる。まして高級車となればなおさらだ。かつてのエリックは、道路を走り過ぎていく高級車をただ羨ましく眺めるしかなかった。
だが、そのとき――。
