第009章「お金のための倫理」
バーを出たエリックは、夢にも思わないうちにタクシーを拾いかけていた。ふと頭をよぎる。――手にしたばかりの金があれば、車くらい余裕で買えるじゃないか。
しかも高級車だ。多くの若い男が胸に秘める憧れで、エリックも例外ではない。道を走り抜けていく流線形の高級車を、どれほど羨望の眼差しで追ってきたことか。だが以前は、そんな夢は分不相応すぎた。ところが今は違う。車どころか、やろうと思えば飛行機だって買える――そんなことさえ不可能ではないのだ。
そのとき――
キィィッ!
艶のある黒いビジネス車が、エリックの目の前で急停止した。ドアが勢いよく開き、黒づくめの屈強な男たちが四人、どっと降りてくる。
「ガキ、乗れ!」
説明など一切ないまま、男たちはエリックを乱暴に車内へ押し込んだ。直後、黒い車は現れたときと同じ速さで走り去り、あたりの景色を引きちぎるように消えていった。
「お前ら……誰だよ?」
目の前に並ぶ黒服の四人を見回しながら、エリックの背中を嫌な予感が這い上がってくる。
「ガキ、誰かなんてどうでもいい」禿げ頭の男が吐き捨てるように言った。「お前が知るべきなのは一つだけだ。人目のない場所へ連れていって、そこでお前を廃人にしてやる」
それを聞いた瞬間、エリックの顔色が変わった。金は手に入れた。だが武術の心得などない。身を守る術がない恐怖が、喉元までせり上がる。
「スミス家の差し金か? それともケイデンか?」エリックは眉をひそめて尋ねた。思い当たる敵は、その二つしかない。
「黙れ!」禿げ頭が目を吊り上げる。
敵意など気にしていられない。エリックは歯を食いしばり、強引に言葉を繋いだ。
「誰の指示だろうと関係ない。お前らに払われてる金の倍を出す。命令したやつを捕まえて連れてこい」
「黙れって言っただろ、聞こえなかったのか」禿げ頭が唸る。「俺たちにも仕事の流儀ってもんがある。依頼主を裏切るような真似はしねぇ。いいな?」
「五倍だ! 五倍出す!」エリックは指を五本立てた。
「五倍……?」黒服の三人が思わず顔を見合わせる。露骨に揺れた。禿げ頭の男でさえ、一瞬だけ目が迷う。
エリックは畳みかけた。
「じゃあ十倍。十倍払う。黒幕を捕まえなくてもいい、そいつが誰か教えるだけでいい」
男たちの目が見開かれる。
「十倍!? ボス、こいつ十倍だってよ! しかも何もしなくていいって!」三人が声を上げた。
「なあ、聞かせてもらうが――」禿頭の男はこらえきれず、エリックのほうへ身を乗り出した。顔には露骨な懐疑が刻まれている。「お前……本当に、提示額の十倍を出せるのか? 俺たちは“支援者”から、報酬は百万円だって約束されてるんだぞ」
「一千万か? 問題ない」エリックはうなずいた。
「よし!」禿頭の男は自信満々に言い放つ。「取引成立だ!」
大金を前にして、いわゆる職業倫理など跡形もなく崩れ落ちた。エリックはその場で五百万円を送金した。
銀行からの通知を受け取った禿頭の男の顔は、みるみる笑みに割れた。
「これでいい。……で、誰の差し金だ? 誰に雇われた」エリックが問う。
「アレックスだ」禿頭の男はあっさり口を割った。
「アレックス?」エリックは目を細め、視線に冷たいものが走った。背筋にひやりとした感覚が落ちる。
エリックが残りの五百万円を送金すると、男たちは車からエリックを降ろした。車が夜の闇へ消えていくのを見送りながら、エリックの瞳に殺気が閃いた。
「スミス家……どうやら、本気で死にたいらしいな」
あの親子を追い出した時点で、これ以上揉めるつもりはなかった。だが、まさか人を雇って自分に危害を加えようとするとは――それだけは断じて許せない。
エリックは携帯電話を取り出し、新任のゼネラルマネージャー、クーパーの番号を呼び出した。
「クーパー、今ヒル・ロードにいる。迎えに来い。話がある」
……
三十分後、メルセデスがエリックの前に停まり、クーパーが車を降りてきた。驚いた表情が浮かんでいる。
「会長、こんな寂しい場所に、こんな時間に……いったいどうされたんです?」
「乗れ。中で話す」エリックはそう言って、後部座席へ滑り込んだ。
車内に入ると、エリックは今夜の出来事をクーパーに手短に説明した。話を聞き終えたクーパーは、奥歯をぎり、と噛みしめた。
「アレックスめ……なんて図々しい」
そして、ふと思い出したように続ける。
「それと会長。スミス家は、これまで長年にわたって会社の金を相当額、横領しています。証拠は揃えました。通報すれば、懲役十年以上は確実です。少し手を回せば、二十年まで狙えます」
「そうか」エリックは目を細めたまま、低く言った。「なら、檻の中で悔い改めさせろ。この件はお前に任せる」
本来は――
当初、エリックはスミス一家を抹消するつもりだった。だが考え直すと、牢獄で朽ち果てさせるのも悪くない。いや、むしろ――残りの生涯を、悔恨に食い尽くされながら獄中で喘がせる。そう思うと、ひどく胸がすくほど魅力的に思えた。
「会長、ご安心ください。必ず適切に対処いたします」クーパーは確信に満ちた声で請け負った。
エリックは話題を切り替えた。「そうだ、クーパー。フローリッシング建材会社は、うちの資材の仕入れ先の一つだったな?」
「はい」クーパーはうなずく。
「もし取引を打ち切ったら、うちに大きな影響は出るか?」
「問題ありません」クーパーは首を振った。「別の建材会社に切り替えるだけです。うちと組みたがっているところはいくらでもあります。ホンダのフローリッシング建材がうちと取引できたのも、スミス家に賄賂を渡して取り入ったからです」
「わかった」エリックはうなずいた。
クーパーは続けた。「会長が新しい役職に就かれたことは、もう広まっています。取引先の多くが会長にお会いしたがっています。先ほどのフローリッシング建材会社も、その一つです」
少し間を置き、クーパーは言葉を継いだ。「そこで、小さなカクテルパーティーを開き、各社の社長たちを招いて顔合わせの場にしようと考えています。会長、いかがでしょう?」
「いい。手配してくれ」エリックはうなずいた。
ほどなくしてクーパーはエリックを学校まで送り届け、カクテルパーティーは次の土曜日に予定された。
……
――ワシントンDC。
ウィリアムズ家の屋敷の中。
「ウルフマン、本当に孫はもう安全なのか?」ショーンは電話口で尋ねた。
「はい、間違いありません。ずっと後を追っていました。若様――エリック様は無事で、学校にも戻られました」受話器の向こうから、しゃがれた声が返ってきた。
「よし。孫が、あの犯罪者どもから逃げるのにどんな手を使ったかはわかるか?」ウィリアムズ氏が問いただす。
「申し訳ありません。そこまでは……」ウルフマンは答えた。
一拍置いて、ウルフマンが伺うように言った。「旦那様、若様のためにスミス家の始末をいたしましょうか?」
「必要ない。あれは孫にやらせる。訓練の一つでもある。ウルフマン、おまえは引き続き、影から安全を守れ」ショーンは言った。
そう告げて、電話を切った。
「それで訊ねるが、わしの孫はどうやって連中の手から逃げおおせたんだ?」
「申し訳ありません。私にも分かりかねます、旦那様」そう答えたのは、ウルフマンと呼ばれる男だった。
しばし沈黙が落ちる。やがてウルフマンは恐る恐る口を開いた。
「旦那様、こちらの若旦那のために、スミス家に手を下しましょうか?」
「いや、本人にやらせろ。訓練の一環だ。ウルフマン、おまえの任務は変わらん――影から安全を確保しろ」ショーンはそう命じた。
通話が終わると、ブレイディ秘書が口を挟んだ。
「旦那様、エリック若旦那はなかなかの腕前でございます。あの厄介事をお一人で片づけられました。てっきりウルフマンが動くことになると思っておりましたが」ブレイディは微笑んだ。
「そうだな。私も、あれでは無理だろうと思っていたが、実際には自力で危機を収めた。見事なものだ」
ウィリアムズ氏は顎ひげを撫でつけ、満足げに笑みを深めた。
「確かに。私も疑ってはいたが、危機への対処は実に鮮やかだった。……どんな手を使ったのか、心底気になりますな」ブレイディ秘書は思案げに言った。
「ははは」ウィリアムズは腹の底から笑った。「私もだ。次に会ったら必ず訊いてやる」
――翌朝、スミス邸。
居間では、ウェンディとミスター・スミスが向かい合い、言葉を交わしていた。
「ミスター・スミス、本当に今日、あのクズのエリックに会いに行くの?」
「心配いらん。今度こそ逃がしはせん」ミスター・スミスは、計画に抜かりはないとばかりに自信満々で笑った。
そのとき、アレックスが不安を顔に貼りつけたまま階段を下りてきた。
「まだ連絡がないのか? あのハゲにも電話がつながらないんだ」アレックスは焦った声で言った。
昨夜のうちに、ハゲ男がエリックを始末する手はずだった。ところが、いまだに音沙汰はなく、電話も電源が切られたまま――。
その報せに、ミスター・スミスの胸騒ぎは一気に強まった。
「父さん……まさか、何かあったんじゃ……」アレックスが不安げに問う。
「そんなはずはない。計画は完璧だった。……たぶん電池が切れただけだ。もう少し待て」ミスター・スミスはそう言い聞かせた。
ドン、ドン、ドン――。
その瞬間、玄関の扉が強く叩かれた。
「来たな。報告だろう。俺が出る!」ミスター・スミスは急いで扉へ向かい、アレックスが後に続いた。
扉を開けると、そこに立っていたのはクーパーだった。
「クーパー!? どうしておまえがここに……!」アレックスとミスター・スミスは目を見開いた。
「お二人に、エリック会長から伝言です。会長はご無事ですし、あなた方の小細工など、会長を傷つけるにはまるで足りません」クーパーは口元に笑みを浮かべて言い放った。
「な……何だと? 無事、だと!?」アレックスとミスター・スミスは信じられないというように呆然とした。
あれほど完璧だと思い込んでいた計画から、エリックがどうやって逃げ切ったのか――二人には理解のしようがなかった。
