第3章 体育祭
二日間にわたる『パフォーマンス』の後だ。神谷悠もしばらくは大人しくしているだろうと思っていた。
まさか三日目の朝早くに、『願い屋』へまた新しい依頼が舞い込んでくるなんて。
私は教室の席で、こっそりとスマホを開いた。そして『孤独な王子』が投稿した最新の依頼を目にした瞬間、危うくスマホを床に落としそうになる。
『体育祭のパートナー募集:信頼できる女子生徒一名を募集します。真面目で責任感があり、協調性の高い方を希望。報酬:十万円+体育祭用品費全額負担』
十万円?
私は目をこすり、数字を見間違えていないことを確かめる。これは今まで見た中で最高の報酬額だ。前の二回分を合わせたよりも多い。
でも、この依頼……なんだかおかしくないだろうか?
体育祭は来週の一大イベントで、全校生徒が参加する。普通に考えれば、神谷悠の人気なら、彼とパートナーを組みたい女子生徒が長蛇の列を作るはずだ。どうしてわざわざアプリでこんな依頼を出す必要があるのだろう?
私が引き受けるべきか悩んでいると、隣の席の松田さんが小声で話しかけてきた。
「ねえ、春野さん、聞いた? 神谷くん、まだ体育祭のパートナーが決まってないらしいよ」
「そうなの?」
私は何気ないふりを装って応じる。
「うん! 昨日も何人かの女子が誘いに行ったみたいだけど、全部断られたんだって」
松田さんは声を潜め、ゴシップモード全開だ。
「なんでも『特に信頼できる人』じゃなきゃダメだとかで、みんな彼の基準が何なのかって噂してる」
特に信頼できる人……。
依頼文にあった『信頼できる』という言葉を思い出し、胸の中に何とも言えない感情が湧き上がる。
放課後になっても、私はまだ依頼を受けるかどうか迷っていた。十万円は確かに魅力的だけど、神谷悠と公然とパートナーを組むなんて、目立ちすぎではないだろうか?
スマホが一度震え、新しい通知が届いた。
『孤独な王子』からのプライベートメッセージだ。
『依頼期限は二十四時間。期限を過ぎたら無効とする。追伸:この依頼は、君にしか務まらない』
私にしか務まらない?
その言葉に、心臓が速く脈打った。どうしてだろう、神谷悠にそうやって『認められた』ことが、なんだか少し嬉しかった。
もういいか。ここまで高額な報酬なんだから、何をためらうことがある?
私は『依頼を受諾する』をタップした。
翌日の放課後、私は約束通り体育館へ向かった。
神谷悠はすでにそこで待っていて、黒いスポーツウェアに着替えた姿は、ひときわ精悍に見える。
私が入ってくるのを見ると、彼は手を振って合図した。
「時間通りだな」
彼は歩み寄ってくる。
「体育祭の種目はリレーと三人四脚だ。少し慣らしておく必要がある」
「三人四脚?」
私は一瞬呆気にとられた。
「二人じゃなくて?」
「もう一人チームメイトがいるんだが、今日は用事で来られない」
神谷悠は意に介さず言った。
「まずはリレーの練習からだ」
彼は私にバトンを一本手渡した。
「君は第二走者、俺は第三走者だ。バトンパスの時は連携を意識してくれ。落とすなよ」
私はバトンを受け取り、そこに残る彼の体温を感じた。
「始めるぞ」
それからの一時間、私たちは繰り返しバトンパスの練習をした。最初はぎこちなく、何度も落としてしまったが、少しずつ神谷悠のリズムに慣れていった。
彼は走るのが速いけれど、バトンを受け取る瞬間にはスピードを緩め、私が追いつくのを待ってくれる。
彼は実はとても細やかで、私のちょっとした動きにも気づき、それに応じて調整してくれることに気がついた。
「悪くない」
彼は立ち止まって水を飲む。
「君の運動センスは思ったよりいい」
「お褒めに預かり光栄です」
「お世辞じゃない。事実だ」
彼は真剣な眼差しで私を見る。
「君は物事に集中できる。その点は評価している」
夕日が体育館の窓から差し込み、床に温かい光の影を落とす。
この瞬間、私はこれが有料の依頼だということをふと忘れ、まるで友達と一緒に練習しているかのような気分になった。
「もう一回やるか?」
と彼が尋ねる。
「うん」
今度は私たちの連携は完璧で、バトンを落とすこともなく、スピードもスムーズだった。
「完璧だ!」
神谷悠がハイタッチをしようと手を挙げた。
私は一瞬ためらったが、やはり手を伸ばしてそれに応えた。
手のひらが触れ合った瞬間、不思議な、電気が走るような感覚があった。
それからの数日間、私たちは毎日放課後に練習を続けた。
やがて、学校内で噂が立ち始めた。
「春野さん、最近神谷くんと仲良いよね」
「体育祭のパートナーなんだって」
「貧乏でも神谷くんと組めるんだ? 意外だね」
そういった囁き声が、しばしば私の耳に届いた。好奇心からくるものもあれば、羨望も、そして……酸っぱい嫉妬の色を帯びたものもあった。
木曜日の昼休み、私が教室で本を読んでいると、数人の女子生徒が私の机の前にやってきた。
「春野さん」
先頭に立つのは同学年の佐藤さんで、声は甘ったるいが、眼差しは友好的ではない。
「神谷くんと体育祭のパートナーなんですって?」
「はい」
私は本を閉じ、平静に答えた。
「すごいわねぇ」
佐藤さんはにっこり笑う。
「でも不思議だわ。神谷くんはどうしてあなたを選んだのかしら?」
彼女の言葉には、明らかに挑発の色が滲んでいた。
「私が信頼できると判断されたから、でしょうか」
私は淡々と言った。
「信頼できる?」
佐藤さんの隣にいた女子生徒が笑った。
「それとも、他に何か理由があったりして?」
彼女たちが何をほのめかしているかは分かっていた。要するに、私のような貧乏人が神谷悠に釣り合うはずがなく、きっと何か不正な手段を使ったに違いないと思っているのだ。
もし彼女たちが、私がお金で雇われていると知ったらどう思うだろう。
そんな考えが頭に浮かび、自分でもおかしくて笑ってしまった。
「何がおかしいのかしら?」
佐藤さんの顔つきが険しくなる。
「いえ、別に」
私は立ち上がる。
「パートナーを誰にするかは神谷くんの自由ですし、誰かに理由を説明する必要はないと思います」
そう言って、私はスクールバッグを手に教室を出た。
表面上は冷静を保っていたけれど、彼女たちの言葉はやはり少し気分を悪くさせた。
自分と神谷悠の間がただの取引関係であることは分かっている。それでも、こうして人から疑われるのは、やはり嫌なものだ。
そんな時、新たな変数が現れた。
桜井美月——三年生の資産家の令嬢で、生徒会副会長。とても綺麗で、実家はホテルチェーンを経営している。彼女が突然、神谷悠の周りに頻繁に姿を見せるようになったのだ。
「神谷くん、これ、私が手作りしたお弁当なの。よかったら味見しない?」
「神谷くん、来週末に家族のパーティーがあるのだけど、私のダンスパートナーになってくださらない?」
「神谷くん、まだ体育祭のパートナーを探しているって聞いたわ? 私の運動神経、結構良いのよ」
桜井美月の求愛方法は伝統的で、そしてとても直接的だった。彼女はいつも人目のある場所で神谷悠に好意を示し、まるで全校生徒に自分が彼を追いかけているのだと知らしめたいかのようだった。
それに比べ、私と神谷悠の付き合いはとても控えめなものだった。私たちは練習の時にしか会わず、普段学校ではほとんど話さない。たまに視線が合っても、軽く頷くだけだ。
だけど、桜井美月が彼に好意を示すたび、神谷悠の顔にはどこか無理をしているような表情が浮かぶことに、私は気づいていた。彼はとても丁寧に断るが、その眼差しには疲労の色が滲んでいた。
ある日の練習後、私は思わず彼に尋ねてしまった。
「桜井先輩ってすごく人気がありますよね。考えてみたらどうですか?」
神谷悠は運動用具を片付けていたが、私の言葉に手を止めた。
「俺が考えるべきだと、君は思うのか?」
「ただ……彼女、あなたに似合っているなって」
どうしてこんなことを言うのだろう。心の中では、明らかに居心地の悪さを感じているのに。
「似合っている?」
神谷悠は私を見つめる。
「どういうのが、似合っているっていうんだ?」
私は問いに詰まった。確かに、どういうのが似合っているのだろう。
「家柄が釣り合っている、とか?」
私は探るように言った。
神谷悠は笑ったが、その笑顔は少し苦々しかった。
「もし何もかもが『釣り合い』で決まるなら、人生はつまらないものじゃないか?」
彼はバックパックを手に取り、戸口に向かって歩き出した。
「明日は体育祭だ。忘れずに早く来いよ。俺たちは優勝するんだからな」
体育祭当日、天気は最高だった。
校内には色とりどりの旗がはためき、放送からは軽快な音楽が流れてくる。各クラスの生徒たちは体操服に着替え、キャンパス全体が活気に満ち溢れていた。
私と神谷悠は体育館の入口で集合する約束をしていた。私が駆けつけると、彼の隣に見知らぬ男子生徒が立っているのが見えた。
「俺たちのチームメイトの田村だ」
神谷悠が紹介する。
田村くんは内気なようで、私に頷いて挨拶代わりとした。
「三人四脚の時は、春野が真ん中だ」
神谷悠が指示を出す。
「リレーは計画通り。目標は優勝だ」
競技が始まった。
リレーは順調に進み、私たちの連携は練習の時と寸分違わず完璧だった。私は田村くんから渡されたバトンを受け取ると、安定した走りで一周し、そして正確に神谷悠へと手渡した。
ゴールに向かって疾走する彼の背中を見つめながら、私はふと誇らしい気持ちになった。
私たちは、一つのチームだ。
「一位!」
審判が結果を告げた時、私は嬉しさのあまり飛び跳ねそうになった。
神谷悠が走り戻ってくる。その顔には勝利の笑顔が浮かんでいた。その瞬間、彼はクールな御曹司ではなく、ただ勝利に興奮する普通の男の子に見えた。
彼は両腕を広げ、私に向かって歩いてくる。まるで抱きしめようとするかのように。
私は、無意識に一歩後ずさっていた。
「依頼、完了ですね」
私は言った。声が少しこわばっている。
神谷悠の動きが宙で止まり、笑顔もゆっくりと消えていった。
「ああ」
彼は腕を下ろす。
「依頼は完了だ」
周りのクラスメイトたちが歓声を上げているのに、私たちの間の空気は急に気まずくなった。今の自分の反応が彼を傷つけたかもしれないと気づいたが、何を言えばいいのか分からなかった。
結局のところ、これはただの有料の依頼なのだから、そうではないか?
その夜、私はベッドに横になりながら、昼間の競技を何度も思い出していた。
神谷悠が私を抱きしめようとしたあの瞬間、彼の眼差しはとても真摯だった。それなのに私は、逃げることを選んでしまった。
どうして?
携帯が鳴り、新しい依頼の通知が届いた。
私はアプリを開き、『孤独な王子』が投稿した新しい依頼を目にする。
『一緒に星を見よう。今夜十時、学校の屋上で。報酬:二十万円』
二十万円? 私はその数字を見て、複雑な気持ちになった。これはもう、いかなる合理的な依頼の報酬範囲をも超えている。
私は長いことためらった末、結局起き上がって上着に着替えた。
お金のためじゃない。ただ……答えが知りたいからだ。





