第1章

 激痛が、まだこの身のどこかに残っている気がした。

 新婚の夫は、高嶺の花のために私を海へ捨てた。私は鮫に食い千切られ、跡形もなくなった。

 骨すら残らない。

 それが、前世の私の結末。

「――っ」

 頬にひりつく痛みが走り、私は勢いよく目を開けた。

 冷や汗でびっしょりのまま、ベッドに横たわっている。

 男が、ベッドの縁に腰を下ろしていた。氷を包んだハンカチで、私の右頬をそっと冷やしている。

 数時間前――結婚式場で、私の「良き夫」松本勝矢が、自らの手で刻みつけた痕だ。

 私たちは、二つの家族の政略結婚。

 指輪を交換しようとした、その瞬間。勝矢のスマホが鳴った。

 相手は彼の後輩で、彼が宝物みたいに扱う「高嶺の花」涼宮桃香。電話口で、膝を擦りむいてしまったと泣きついていた。

 四谷家の令嬢として、家族の体面を守ろうと私は言った。せめて式だけは最後まで。新婚初夜を終えてから行ってほしい、と。

 返ってきたのは、容赦のない平手打ち。

 勝矢の目は、侮蔑と嫌悪で満ちていた。

「真澄。お前、同じ女のくせに、どうしてあんな純粋で善良な子にそこまで悪意を向けられる? どうせ今日の儀式が終われば、法的にも家の目にも夫婦だ。今夜誰が一緒かなんて、なんでそこまで執着する? まさか四谷家のご令嬢は、生まれつきの尻軽で、一晩でも男がベッドにいないと我慢できないのか?」

 私は、笑いものになった。

 それでも四谷と松本、両家の利害のために、その場で破局をぶちまけるわけにはいかなかった。

 前世の今夜、私はこのベッドで気づくことになる。来た男は勝矢ではない――家族が意図的に隠し、追放した双子の弟、翔一だと。

 私たちは気まずいまま、夜が明けるまでただ座っていた。翌日、私は怒りを抱えたまま両家に説明を求めた。

 強制的に呼び戻された勝矢は、狂ったみたいにドアを蹴破って現れた。テーブルの灰皿を掴み、私の頭を思い切り殴りつける。

 全部私のせいだと喚いた。私が騒ぎを大きくしなければ、桃香は自分がそばにいないせいで傷口が感染して熱を出すこともなかったのに、と。

 その後、桃香はまた電話を寄越し、自殺すると脅した。

 両家はついに激怒し、勝矢から連絡手段を取り上げ、私たちに「新婚旅行」を強制した。

 あのクルーザーで、勝矢はようやく桃香に電話をかける機会を得た。だが、誰も出ない。

 勝矢は、桃香はもう死んだのだと決めつけた。そして、憎しみのすべてを私にぶつけ、私の体を自らの手で鮫の群れへ突き落とした。

「奥さま……?」

 掠れた低い声。勝矢よりも、どこか張り詰めた、探るような響きがある。

 私ははっと我に返り、その顔を見据えた。

 勝矢と、まるで判で押したように同じ顔。

 翔一だ。

 双子の兄の相続権を守るために切り捨てられ、追放され、暗がりで影として生きる男。

 運命の筋書き通りなら、私は悲鳴を上げて正体を暴き、手近のスタンドを叩きつけ――死へのカウントダウンを始めていたはずだ。

 けれど私は、ゆっくりと手を上げ、彼の手の甲にそっと重ねた。

 男の瞳に、わずかな驚きが走る。反射的に手を引こうとしたが、私はきつく握り込んで離さない。

 身を少し起こし、襟元をあえて滑らせた。彼の瞳をまっすぐ射抜き、口角を吊り上げる。

「それで……今の私は、あなたを旦那って呼べばいいの? それとも……弟?」

 この瞬間、空気が丸ごと吸い取られたみたいに感じた。

 翔一の全身の筋肉が、一気に強張る。

「お前……」喉仏が、ごくりと動いた。

「命も顧みず、あなたを私のベッドに送り込んだんだもの」私はくすりと笑い、指先で彼の手首をなぞりながら上へ引き上げる。

「なら、旦那でしょ」

 言い終えるより先に、私は彼のネクタイをぐっと引き寄せ、唇で彼の疑問を塞いだ。

 翔一は最初の一瞬、ひどく硬かった。だが私の舌先が彼の防壁をこじ開けた途端、火がついたように変わる。

 二人の間に挟まれた氷が溶け、冷たい雫が私のウェディングドレスを濡らした。彼は低く息を漏らし、荒々しく私の背中のくるみボタンを引きちぎる。

 肌がぶつかり、熱い息が絡む。高価な絨毯と大きなベッドの上で、私たちは転げ回った。

 彼の大きな手が私の太腿の縁を這い、もう一歩で溺れ落ちそうになった、その時――

「……ブブッ、ブブッ」

 スマホが震えた。

 翔一の動きが止まる。私の上に覆いかぶさったまま、彼は荒い息を繰り返し、わずかに顔を横に向けた。視線が、スマホへ落ちる。

 着信表示に躍っていた名前は――勝矢。

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