第2章

 理性が戻り、私は反射的に腕を突っ張ってスマホを取ろうとした。だが翔一がいきなり手首を押さえつけ、もう一度覆いかぶさってくる。罰を与えるみたいに、私の唇を噛んだ。

「翔一……」

 くぐもった息が漏れる。彼の嫉妬が、肌越しに伝わってきた。私は抵抗せず、素直に両腕を持ち上げて彼の背に回す。指先を、汗で濡れた金髪へと差し込んだ。

「しっ……。鳴らせておけ。今夜、ここには僕たちしかいない」

 翔一の瞳に溜まっていた陰りが、わずかに薄れる。

 嵐が去ったあと、月光が散らかった衣服の上に淡く落ちた。彼は私の隣に横向きになり、何度も何度も、私の顎のラインを指でなぞる。

「真澄……」

 掠れた低い声。

「覚えてるか。九年前、M市の雨の夜。路上で殴られて……泥水の中に膝をついて泣いてた、あのガキ」

 私はわずかに息をのむ。

 翔一は濃い睫毛を伏せた。

「松本家の当主――つまり僕たちの父親。あいつの正妻は子どもが産めない身体だった。家を繋ぐためって言い訳で、母さんを囲って……僕と勝矢を産ませた。隠し子の双子だ。でも松本家に必要なのは、後継ぎは一人だけ」

「権力争いを避けるために、ジジイは選んだ。残したのは勝矢だった」

 翔一の声は、他人事みたいに冷たい。

「僕と母さんは、表に出せない汚点にされた。ジジイは人を寄越して、あのボロアパートを叩き壊した。逃げ道も、生きる道も全部潰してな。僕をこの街の底で、ドブネズミみたいに腐らせるつもりだった。永遠に役立たずにして、勝矢の脅威にならないように」

 その言葉を聞いて、ようやく曖昧だった記憶が繋がった。

 あの年、私は屋敷を抜け出して、土砂降りの中で偶然見たのだ。殴られて息も絶え絶えの少年と、治療費が払えず病院から追い出された重病の母親を。

 あのときの私は、ただの気まぐれな同情だった。

 私はその女性の入院費を立て替え、顔中を青あざだらけにした少年をモーテルに泊まらせた。運命を変えるには十分すぎる現金を置き、さらに伝手を使ってP市の寄宿学校へ入れた。

「あの金が母さんの命を救って、僕の人生を作り直した」

 翔一が顔を上げる。勝矢とまったく同じ形の瞳――なのに今は、私の胸をざわつかせるほどの深い想いと執着で満ちていた。

「お前は知らない。僕がまた家に連れ戻されて、無理やり勝矢の影にされて……極道同士の撃ち合いで、盾みたいに弾を受ける身代わりにされたときも……僕を生かしたのは、あの夜、天使みたいに降りてきた女の子だけだった」

 私は、目の前の顔をじっと見つめる。知っているのに、知らない顔。

 前の人生では、この顔の持ち主が灰皿を振り上げて私の頭を割り、氷みたいな海へ突き落として鮫の餌にした。なのに今は、同じ顔が、卑屈なほどの渇望を抱いて私を見ている。

 復讐の計画が、脳内で一気に芽吹いた。

 朝の光が、N市の薄い霧を突き破る。

 控えめなノック。

 使用人の佐々木がトレーを持って入ってきた。載っているのは、安っぽく目立たない普段着一式。家同士の暗黙の了解――夜が明けたら、表に出せない「影」は裏口からこっそり消える。

 翔一の目が、一瞬だけ翳る。無言のまま布団をはね、用意された偽装に手を伸ばそうとした。

「佐々木」

 私はガウンを羽織り、その粗末な服をゴミ箱へ放り込む。冷えた声で命じた。

「主寝室のドレッシングルームへ行って。松本少爷のオーダースーツ、持ってきなさい」

 使用人は驚愕で目を見開いたが、私の冷たさに逆らえず、震えるように頭を下げて従った。

 皺ひとつない高価なスーツが運ばれてくると、私は自ら受け取った。

 翔一の前に立ち、長い指で彼の胸元から上へ辿りながらシャツのボタンを留めていく。最後にネクタイを首へ回し、ウィンザーノットで締めた。

 耳元へ唇を寄せ、二人にしか聞こえない声で囁く。

「おはよう。私の、いい弟」

 翔一の息が、急に荒くなる。その気配に満足して、私は背筋を伸ばした。

 硬直した彼の腕に自分の腕を絡め、声量を上げる。

「降りましょう、あなた。両家の年長者を、朝食の席で待たせないで」

 老いた使用人は横で立ち尽くし、怯えた視線を私と翔一の間に往復させながらも、声ひとつ出せない。

 私たちが部屋の扉へ向けて身を翻した、その瞬間。

 ベッドサイドの二台のスマホが、同時に震えた。

 私は振り返らない。指をきつく翔一の逞しい腕へ食い込ませ、ヒールを鳴らして――頭も上げずに部屋を出た。

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