第3章
サン・バルテレミー島の陽射しは、肌を焼くほど熱くて、目が痛くなるくらい眩しかった。
最初の数日、松本勝矢は潮風と酒にどっぷり浸かり、鳴りもしない携帯電話など気にも留めなかった。
むしろ、あの忌々しい「影」の弟が泣きついてこないのなら、真澄はまだ綻びに気づいていないのだろう――そう、勝矢は都合よく思っていた。
だが、丸々一週間が過ぎてもN市は沈黙したままだ。真澄の詰問もない。翔一の定期連絡もない。腹心たちに至っては、まるで最初から存在しなかったかのように音沙汰が途絶えている。
さすがの勝矢も、背筋が冷えた。
マフィアの世界で、息が詰まるほどの静けさは、最高ランクの抹殺命令を意味することがある。
自分が今回、逃げるように結婚式をすっぽかして高嶺の花のところへ転がり込んだ――その行為がどれほど質の悪い裏切りか、勝矢は痛いほど理解していた。四谷家の面子を潰しただけじゃない。両家の政略結婚がもたらす利権の同盟、その土台を踏みにじったのだ。
もし父が真相を掴んでいたら。今この瞬間にも、松本家の“掃除屋”が拳銃を握り、砂浜へ向かっているかもしれない。
「勝矢……ねえ、私の話、聞いてるの?」
桃香がプールから上がり、濡れた身体のまま、勝矢の裸の背中にふわりと貼りついた。
唇を噛み、瞳の奥に不満を滲ませる。
「帰りたいんでしょ? やっぱり、あの箱入りのお嬢さまのほうが好きなんでしょ? もし私をN市に連れていったら、あの女、家の力を盾にして私を傷つけるに決まってる……」
「黙れ、桃香」
勝矢は苛立たしげに眉間を揉み、胸の底でうねる恐怖を力ずくで押し殺した。
「いいか。俺が戻って、松本家のセキュリティコードと最終権限を正式に引き継いだら、お前が実質の女主人だ。真澄ってクズが少しでもお前に無礼な真似をしたら――誓ってやる。俺の手で甲板から突き落として、サメの餌にしてやる」
保証を得た桃香は、涙を引っ込めて笑い、勝矢の唇にちゅっと口づけた。
しかし勝矢は、きらきらと光る海面を睨みつけたまま、拳を固く握りしめる――今すぐN市へ戻らなければならない。
【真澄視点】
松本家の私邸。
手の中の検査結果を見つめる。
妊娠していた。
今夜は、両家の中枢と古参が一堂に会する席だ。
私はノンアルコールのスパークリングを手に、少し離れた場所にいる翔一を見ていた。
翔一は両家の実力者たちの間を抜けるように立ち回り、臆する素振りすら見せない。それどころか、たった数言で四谷家が抱えていた「南区港の密輸ルート」の利益配分への不信をほどいてみせた。
あれは勝矢が傲慢と偏執でこじらせ、両家の関係を最悪にまで冷え込ませた、どうしようもない負債だったはずなのに。
現松本の当主が父に満足げに頷き、口うるさい叔父たちが翔一へ称賛の目を向ける。
もう、完全に掌握したのだと分かる。
胃の奥が、またぐらりと波打った。私は口元を押さえ、踵を返してテラスへと向かう。
ひやりとした夜風が頬を撫でた、その瞬間。
スーツの上着が、そっと肩にかけられた。
いつの間にか、翔一がついてきていたのだ。
その仕草には、病的な独占欲が滲んでいる。
「お兄さんの真似、ますます板についてきたわね」振り返らず、私は戯けるように言った。
翔一は背後から、私を囲い込むように腕を回す。
「あなたが隣で指揮してくださるからです。僕の奥さま」
私は小さく笑い、脇のトレイから強いウォッカを取って彼の前に差し出した。
「じゃあ……興味はある? この芝居を、最後まで本物にしてしまうこと。永遠に彼の代わりになるの」
翔一の呼吸が、はっきり止まった。
躊躇など一瞬もない。権力と罪を象徴するその杯へ、手が伸びる。
――バンッ!
扉が、乱暴な一撃で蹴り破られた。
私と翔一は同時に振り向く。
松本勝矢だった。
ホールに両家の古参が揃っているのを認め、さらにテラスで翔一に庇われるように立つ私を見た瞬間、勝矢は獣のように吠えた。
「真澄! このっ、理屈も通じないクズが!
俺はお前みたいな女に、わざわざ結婚って形までくれてやったんだぞ! 式が済んだら帰るって言っただろうが! たかがこんなことで騒ぎ立てて、両家の人間を全員呼びつけて俺に圧をかける気か? いいか、俺は絶対に許さない! 今ここで土下座して頭を地面に擦りつけて頼んだって、二度とお前なんか見てやらない!」
ホールが一瞬で凍りついた。
私はタイミングよく、えづくように喉を鳴らし、怯え切った弱々しい姿を演じる。
その仕草が、勝矢の神経を完全に焼き切った。
「まだ俺の前で白々しく――殺してやる!」
叫びながらテラスへ突進し、私の首を掴もうと手を伸ばす。
次の瞬間、翔一の視線が勝矢の手首を射抜いた。
がしり、と掴む。
そして、容赦なく捻り上げる。
勝矢は悲鳴を上げ、膝から床に叩きつけられた。
翔一の瞳は氷のように冷たい。そのまま、わざと響く声で言い放つ。
「勝矢。問題だらけの家の落ちこぼれが、外で飼い殺しにされてるうちに、脳みそまで腐ったのか?」
ホールの誰もが聞き逃せないように、語尾まで明確に。
「兄の妻にここまで不敬――その腹に宿っているのは、松本家でもっとも尊い後継者だぞ!」
