第4章

 翔一は見下ろすように、床に転がる兄を見下ろしていた。

「翔一……哀れな、追放された弟よ」

 翔一はふっと息を吐き、痛みを噛み殺すような声音で続ける。

「嫉妬に目がくらんで、あの豪雨の中で俺を殺そうとした。今度は四谷家の令嬢にまで手を出すつもりか? 貧民街での暮らしは、お前の誇りを腐らせただけじゃない。惨めなくらい少ない脳みそまで、完全に腐らせちまったらしいな」

「ふざけるな! この偽物が! 真澄……てめえ、このクズ! こいつが誰か、分かってんだろ!」

 勝矢の目が、獣みたいに私を射抜く。

 私はちょうどいいタイミングで、かすかな悲鳴を漏らした。

 血にまみれたマフィアの世界で生き残るには――弱さこそが、最高の仮面になる。

 よろめくように一歩下がり、父――四谷家の当主の傍へ身を寄せる。

「そ、そんな……だから新婚旅行でシチリアにいたとき、あなたは何度も姿が見えなくなって……。ボディガードも、誰かに見張られている気がするって……」

 全身が震えるのを、私はあえて隠さない。

「あなた……ずっと、この狂った弟が私たちをつけ回してたのね! 私たちを殺すつもりだったの? それとも……この子まで……!」

 言い終えるより早く、四谷家の長老たちが一斉にジャケットの下へ手を入れ、拳銃を抜き放った。黒い銃口が、床の勝矢へと揃って向く。

 松本家の当主は上座に腰を据えたまま、冷え切った眼差しでその光景を眺めている。

 片や、一週間前に家の利益を踏みにじって逃げるように結婚式から消え、今は犬みたいに床に這いつくばって吠え散らかす「厄介払い」。

 片や、ついさっきの晩餐会で敵対勢力の縄張りを電光石火で奪い取り、強硬な手腕を見せつけたうえに、まもなく四谷家の血を継ぐ子を迎える「勝矢様」。

 秤は、とっくに傾いていた。

 松本は吸いかけの葉巻を灰皿に押しつけ、淡々と言い放つ。

「連れて行け。屋敷でこの狂犬の鳴き声は二度と聞きたくない。両脚を折って本部の地下牢へ放り込め。俺の許可があるまで治療は一切禁止だ」

「正気かよ……! お父様! 俺は勝矢だ! 俺が本物の勝矢だ――!」

 屈強な処理係が数人、即座に前へ出る。容赦なく警棒を振り抜き、勝矢の膝を叩き潰した。

 ぐしゃり。

 空気が裂けるような絶叫が走り、勝矢はボロ布みたいに引きずられていく。床には、目を背けたくなるほど長い血の筋だけが残った。

 私は伏せたまつげの奥に、胸のすく快感を隠した。

 まだ始まりにすぎないわ、勝矢。

 前の人生であなたが私に与えた痛み――千倍にも万倍にもして、あなたから取り立ててあげる。

 ……

 深夜。

 私はやっと、作り物の疲れを脱いだ。

 翔一もまた、「勝矢」を名乗るためのスーツを脱ぎ捨てる。

 彼は私の前まで歩み寄り、片膝をついて足元に跪いた。

 口づけをねだることはしない。ただ、祈るように頭を垂れる。

 頬がそっと、私の下腹に触れた。今日、命を懸けて守ると誓った「後継者」がいる場所。

 やがて彼は顔を上げる。

 狂気じみた執着をたたえた瞳が、まっすぐに私を捉えた。

「奥さん」

 低く、甘く掠れた声。

「今日の僕の噛みつき方……ご満足いただけましたか」

私はワイングラスを置き、指先を彼の金色の髪に差し入れる。額から頬へ、ゆっくり撫で下ろし――最後に喉仏で止めた。

「完璧よ。私の忠実な猟犬」

 身体を少しだけ傾け、彼の鼻先に軽い口づけを落とす。

「でも、これはほんの頭金にすぎないわ」

 翔一の瞳孔を見据え、囁く。

「私は彼からすべてを奪う。信仰も、尊厳も。大切にしているものが腐って臭っていくのを、彼自身の目で見せつけて……そして――地獄の底まで堕としてあげる」

 翔一は私の手首を掴み返し、掌を熱い頬へ押し当てた。唇の端が、恍惚に歪む。

「仰せのままに、我が女王」

「地獄の門なら――俺が直々に、叩き開けて差し上げます」

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