第1章 葬儀が終わったら、離婚しよう
辻本雨妃は裸足のまま寝室の毛足の長いラグに立ち、浅井景辰に掃き出し窓へ押しつけられていた。喉の奥で押し殺したような、か細い声が途切れ途切れに漏れる。
浅井景辰は焦点の合わない目で、彼女の細い後ろ首を腕で強く押さえつけ、歯の隙間から憎しみを吐き出した。
「辻本雨妃、お前……俺に薬を盛ったのか……」
「違う……私じゃない……」
辻本雨妃は死ぬほど翻弄されながらも、身体は勝手に熱に浮かされて力が抜けていく。歯を食いしばり、涙に滲んだ声で必死に否定した。
「あのスープに何か入ってたなんて……私、本当に知らないの……」
今日は、彼女と浅井景辰の結婚五周年の記念日だった。浅井の祖父がわざわざ白トリュフとワタリガニを届けさせてくれた。どちらも、辻本雨妃と浅井景辰の好物だ。
それなのに食事を終えた途端、身体が一気に熱を帯び、そのまま気づけば今の有様だった。
「子どもが欲しいって言ったのは、お前だろ」
浅井景辰は身をかがめ、指先で彼女の顎を持ち上げる。双眸は赤く充血していた。
「俺が頷かないからって、こんな卑怯な真似に出たのか」
口では罵倒しながらも、身体は抑えが利かないように辻本雨妃へ激しく迫ってくる。
その食い違った激情が、かえって浅井景辰を苛立たせた。細い腰を掴み、怒りのすべてを叩きつけるように。
辻本雨妃は痛みに耐えきれず顔を背けた。乱れた吐息が首筋にかかる。熱いはずなのに、背中はぞくりと冷えた。
夕食の席で、確かに彼女は浅井景辰へ子どもが欲しいと口にした。祖父の身体は日に日に弱っていて、ずっと孫の顔を望んでいたからだ。だからこそ、この特別な日に、そっと気持ちを探っただけだった。
けれど浅井景辰は考える間もなく拒み、彼女には自分の子どもを産む資格などないと嘲った。
どれほど時間が過ぎたのか分からない。辻本雨妃はもう限界で、細く頼りない喘ぎが漏れた。
それを耳にした瞬間、浅井景辰の瞳の奥で欲がいっそう濃く深くなる。だが、唇から零れるのは毒ばかりだった。
「へえ。浅井夫人はそんなに欲深かったのか。これっぽっちで声が出るなんてな」
「もうやめて……お願い……」
頬が焼けるように熱くなり、辻本雨妃は両手で顔を覆った。
浅井景辰は彼女を抱え上げ、ドレッサーの鏡の前へ連れていく。髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「自分の顔、よく見ろ。雌犬と何が違う」
辻本雨妃はぎゅっと目を閉じた。あまりにも強い屈辱が、全身を覆い尽くす。
浅井景辰の呼吸が荒くなる。指が腰の脇へ深く食い込み、動きはさらに容赦を失った。
激しい衝撃のあと、彼は夢中のまま、ふっと甘えるように二文字を零した。
「遥ちゃん……」
辻本雨妃の身体が、その瞬間に凍りついた。涙が音もなく頬を伝う。
日野遥。
その名は針のように、彼女の心臓へ深く突き刺さった。痛くて、息ができない。
日野遥は、夫である浅井景辰の初恋の相手だった。
三年前、辻本雨妃の父が亡くなったあと、浅井の祖父は昔の縁を思って、浅井景辰に彼女との結婚を命じた。結果、日野遥は海外へ去り、それきり一度も戻ってこなかった。
それでも浅井景辰は、彼女を忘れたことがない。辻本雨妃を抱いている最中ですら、無意識にその名を呼んでしまうほどに。
夜更けを過ぎてようやく薬の効き目が切れ、浅井景辰は辻本雨妃に覆いかぶさったまま、深い眠りへ落ちた。
翌朝。辻本雨妃が目を覚ました時、隣に浅井景辰の姿はなかった。
疲れ切った身体を引きずって寝室を出ると、リビングのソファに浅井景辰が座っていた。きっちりとスーツを着こなし、整った横顔のまま新聞をめくっている。昨夜の狂気など、最初から存在しなかったかのように。
彼女が階段を下りてきたのを見ると、浅井景辰は薬の箱をテーブルへ放った。
「飲め」
辻本雨妃はそれを手に取り、中身を見て息を呑んだ。避妊薬だった。
そこまで嫌われているのか――胸の奥が、すうっと冷えていく。
辻本雨妃は浅井景辰を見つめ、説明しようとした。
「昨夜のこと、たぶん……おじいさまのお考えで――」
「黙れ!」
浅井景辰は荒々しく遮り、露骨な嫌悪と軽蔑をその目に浮かべた。
「じいさんを言い訳に使うな。お前が必死に取り入らなきゃ、俺が結婚するとでも思ったのか?」
辻本雨妃の顔から血の気が引く。
「だから言ったでしょう……あの時のことは、あなたが思ってるようなものじゃ――」
「じゃあ、どんなものだ」
浅井景辰は冷笑し、彼女の顎を指で挟み上げた。
「辻本雨妃、よく聞け。この先一生、お前が俺の子どもを身ごもることはない」
その言葉は鈍い凶器のように、辻本雨妃の心臓を打ち据えた。苦しくて、息が詰まる。
彼女は目の前の男を見上げる。八年ものあいだ、愛し続けてきた相手を。
政略結婚の相手が浅井景辰だと知った夜、嬉しさのあまり一睡もできなかった。十九の春、学校で初めて彼を見たあの瞬間から、心は落ちていたのだ。
その頃の彼女は、浅井景辰に恋人がいることすら知らなかった。毎日どうにか近づこうとしては、何度も冷たく拒まれた。
諦めかけた頃に告げられた、浅井家との婚約。浅井景辰が不本意そうなのは分かっていた。それでも辻本雨妃はかまわなかった。喜びのまま嫁ぎ、いちばん美しい時間を捧げて愛し、この家のために懸命に尽くしてきた。なのに返ってきたのは、一度や二度ではない侮辱だけ。
「浅井景辰……」
辻本雨妃の目に涙が滲む。声は掠れていた。
「どうしてそんなに私を憎むの……? 私、何をしたの……?」
「その哀れっぽい顔をやめろ」
浅井景辰は眉をひそめ、不快そうに言い放つ。
「さっさと薬を飲め。それから自分の部屋に引っ込んでろ」
最後の希望まで消え、辻本雨妃の胸に残ったのは、ただ麻痺だけだった。
彼女は薬と水を受け取り、喉を鳴らして飲み下した。
「これで満足?」
グラスを置いた声は、自分でも怖くなるほど平坦だった。
浅井景辰は、彼女が従ったのを見てようやく眉間の皺を緩め、氷のような口調で言う。
「二度と余計な真似はするな」
辻本雨妃がドアノブに手をかけた、その時だった。浅井景辰の携帯が鳴る。
電話に出た途端、彼の顔色が変わった。
「……いつの話だ?」
辻本雨妃は足を止め、振り返る。
浅井景辰は通話を切り、複雑な顔つきで彼女を見た。
「じいさんが……病院で亡くなった。三十分前だ」
辻本雨妃はその場に立ち尽くした。耳の奥で、ぶうんと耳鳴りがする。
「そんな……昨日も電話で話したのに……お元気だったのに……」
信じられないという呟きと同時に、涙があふれ出した。
この五年、浅井景辰に冷たくあしらわれ、侮辱されるたびに、彼女を庇ってくれたのは祖父だった。浅井家でたったひとり、彼女に優しさを向けてくれた人。あの人がいなければ、辻本雨妃はとっくに折れていた。
辻本雨妃は浅井景辰に連れられ、病院の霊安室へ入った。
白布がめくられ、安らかで――けれど青白い祖父の顔が現れる。
堪えきれなかった。涙が一気にあふれ出す。辻本雨妃はベッドにすがりつくように膝をつき、冷え切った手をぎゅっと握りしめた。声にならない嗚咽がぽろぽろとこぼれる。
祖父が逝ってしまった。彼女を支えていた最後の拠り所まで、失われた。これから自分は、浅井家でどう生きていけばいいのだろう。
浅井景辰は傍らに立ち、崩れ落ちる辻本雨妃を見つめていた。唇を固く結び、顎の線は張り詰めている。冷たい表情の奥に、かすかな痛みが滲んでいた。
それから数時間、二人は無言のまま諸々の手続きを済ませた。
帰りの車中。窓の外には、灰色の空がどこまでも広がっている。辻本雨妃は掠れた声で言った。
「浅井景辰。おじいさまの葬儀が終わったら……私たち、離婚しましょう」
