第2章 お爺さんが彼女に残した遺産

浅井景辰は急ブレーキを踏み、はっとしたように彼女を振り向いた。

「……今、何て言った?」

「もう五年よ。私、疲れたの」

辻本雨妃は無表情のまま、その視線を受け止める。瞳の奥にあるのは、ただ深い疲労だけだった。

「私が浅井家の栄華目当てであなたに嫁いだと、あなたがそう決めつけるなら……おじいさまがいなくなった今、ここに居続ける理由もないわ。別れましょう」

「はっ」

浅井景辰は鼻で笑った。そこにあるのは、あからさまな嘲りと軽蔑。

「辻本雨妃。お前のこと、見くびってたよ。じいさんの遺骨も冷めないうちから、もう逃げ道の算段か? 後ろ盾が消えて、浅井家にいても旨味がない。だから慌てて手を引くってわけだな」

辻本雨妃はそっと目を閉じた。

言い返す気力すら、もう残っていない。

「好きに思えばいいわ」

彼女は視線を窓の外へ戻す。薄暗い車内で、その横顔はひどく青白く、壊れそうなくらい脆かった。

「離婚届は私が用意する。何もいらない」

浅井景辰が何か言いかけた、その時だった。携帯が鳴る。

辻本雨妃がちらりと画面を見る。日野遥――。

「景辰、おじいさまのこと聞いたよ。大丈夫?」

受話器の向こうから、日野遥のやわらかな声が流れてくる。

車内は静まり返っていた。だから、その声は辻本雨妃の耳にもはっきり届いた。

「……ああ。今ちょうど、一通り済んだところだ」

浅井景辰の声色が、目に見えて和らぐ。

「今どこにいるの? 心配で……そっちに行って、傍にいてもいい?」

浅井景辰は二秒ほど黙り込み、それから浅井本家の住所を告げた。

辻本雨妃の心が、すうっと沈んでいく。

底の見えない水の底へ落ちるみたいに、どこまでも。

やがて、全身が冷え切った。

浅井景辰が、他人にここまで優しい声音を向けるのを、彼女は一度も見たことがなかった。

――愛される人間と、愛されない人間。

その違いは、残酷なほど鮮やかだった。

二人が本家へ戻ると、広間はすでに弔問のために整えられていた。

日野遥は控えめな黒のワンピース姿で現れた。

玄関をくぐるなり、浅井景辰は自ら彼女のもとへ歩み寄り、そのまま並んで弔問客の応対を始める。

息の合った立ち居振る舞い。

人々の視線は自然と日野遥へ集まり、まるで彼女こそがこの家の女主人であるかのようだった。

辻本雨妃は、それをただ静かに見ていた。

心はもう、ほとんど動かない。

ただ、浅井のおじいさまの遺影が目に入った時だけ、胸の奥がかすかに揺れた。

その時、日野遥が浅井景辰の腕に手を添えたまま、こちらへ歩いてきた。

青白い顔をした辻本雨妃を見ると、気遣わしげに声をかける。

「雨妃、あまり無理しないで。ちゃんと身体を大事にしてね」

上品で、柔らかく、非の打ちどころのない物腰。

辻本雨妃が彼女の本性を知らなければ、きっと騙されていただろう。

浅井景辰に嫁いで間もない頃から、辻本雨妃の携帯には匿名の嫌がらせメッセージが何度も届いていた。

卑怯者。恥知らず。他人の男を奪った女。

そんな言葉ばかりだった。

最初のうち、辻本雨妃は気にしなかった。

浅井景辰ほどの男なら、上流階級の令嬢たちに慕われるのも当然だと思っていたから。

けれど、回数は次第に増えた。

そしてある日、匿名の相手は一枚の写真を送りつけてきた。

車の中で、浅井景辰が女と濃密に絡み合っている写真だった。

金髪を肩に流した細身の女が、彼の膝に跨っている。艶めいた空気が、画像越しにも生々しく伝わってきた。

その匿名の送り主こそ、日野遥だった。

辻本雨妃がその写真を突きつけて問いただしても、浅井景辰は眉一つ動かさなかった。

それどころか、彼女に自分のことへ口を出す資格はないと、冷たくあざ笑っただけだ。

以前の彼女なら、きっと耐えただろう。

浅井景辰の体面を守るために、日野遥とも表向きは穏便にやり過ごしたはずだ。

けれど今日は違う。

大切な人を失い、心はもう灰になっていた。

誰かに合わせる気力など、欠片もない。

辻本雨妃は泣き腫らした目を上げ、日野遥をまっすぐ見た。声にはうっすらと疲れが滲む。

「お気遣い、どうもありがとうございます。でも、これは浅井家の内輪のことです。日野さんが女主人みたいに弔問客の相手をするのは……少し、出過ぎではありませんか?」

日野遥の顔色が変わった。

反射的に浅井景辰の傍へ身を寄せ、困ったように見上げる。

「景辰……私は、ただ力になれたらって……」

「辻本雨妃!」

案の定、浅井景辰は激昂した。日野遥を背に庇い、鋭く怒鳴りつける。

「じいさんが亡くなった途端、本性を出したか!」

夫が、自分の目の前で他の女を庇う。

その光景はあまりにも滑稽で、もはや笑いたくなるほど惨めだった。

辻本雨妃は口元を冷たく歪める。

「そんなに声を荒らげなくてもいいでしょう。おじいさまがいなくなって、あなたにとっては好都合なんじゃない? これでやっと、自分の好きな人と結婚できるもの」

「……っ」

浅井景辰は言葉に詰まり、顔色を鉄のように強張らせた。

その横で、日野遥がそっと彼の袖を引く。

「景辰、怒らないで。雨妃は……ただ悲しすぎて、ついあんなことを言っただけよ。責めないで。悪いのは私。来るべきじゃなかったのかもしれない……」

控えめで、聞き分けがよくて、どこまでも健気。

そう振る舞えば振る舞うほど、辻本雨妃だけが理不尽な悪役に見えていく。

浅井景辰は日野遥の泣きそうな顔を見下ろし、次いで辻本雨妃の冷え切った表情を見た。

胸の奥で燻っていた苛立ちが、一気に噴き上がる。

「辻本雨妃。二度と遥に難癖をつけるな」

氷のような声だった。

「次があったら、容赦しない」

そう言い捨てると、もう彼女を一瞥もしない。

日野遥を抱き寄せるようにして、そのまま奥の間へ消えていった。

辻本雨妃は、おじいさまの遺影を見上げた。

写真の中の老人は、いつものように穏やかに微笑んでいる。

彼女はゆっくりとしゃがみ込み、両膝を抱えて顔を埋めた。

肩だけが、かすかに震える。声を殺した嗚咽が、胸の奥で崩れていった。

――おじいさま。

あなたがいなくなったら、もう誰も私を守ってくれない。

すべての弔問客を見送ったあと、浅井家の面々は書斎へ集められた。

坂東が遺言書を開く。

浅井グループの株式五十パーセントを辻本雨妃に遺す――。

その文言が読み上げられた瞬間、部屋の空気が凍りついた。

「そんな馬鹿な!」

真っ先に声を荒らげたのは、景辰の叔父である浅井新海だった。

「親父が、どうして赤の他人にそこまでの株を残すんだ!」

坂東は落ち着き払ったまま、遺言書を示す。

「公正証書です。法的な問題は一切ありません。株式のほか、辻本様には五千万ドルの信託基金、それからお手紙が一通、遺されています」

そう言って、坂東は封筒を辻本雨妃へ差し出した。

浅井景辰は暗い顔で彼女を見つめる。

目にあるのは、むき出しの嘲笑だった。

「……大したものだな、辻本雨妃」

辻本雨妃自身も、この遺贈には驚いていた。

それでも、浅井景辰の皮肉に応じる気はない。

震える指で封を切り、手紙を開く。

最初の一文を見た瞬間、目の奥が熱く滲んだ。

『雨妃へ。この手紙を読んでいる頃には、もうじいさんはこの世にいないだろう。五年間、つらい思いをさせたな。景辰は頑なな子だ。お前が浅井家に嫁いでから、どれほど我慢してきたか、じいさんはちゃんと分かっている』

浅井のおじいさまは、株や金だけを残したのではなかった。

スイスには、彼女のための画廊まで用意してくれていた。

『景辰の傍に残る道を選んでもいい。株を持っていれば、あいつもそう簡単にはお前を粗末に扱えまい。だが、離婚してスイスへ渡り、自分の道を生きてもいい。どちらを選んでも、じいさんはお前の味方だ。お前はいい子だ。もっと幸せになっていい』

辻本雨妃は、もともと研究職に就いていた。

けれど、その胸の奥にはずっと別の夢があった。

画家になりたい――そんな、誰にも言えなくなっていた夢が。

誰も覚えていなかった。

覚えていてくれたのは、おじいさまだけだった。

最期の瞬間まで、彼は彼女の未来を案じてくれていたのだ。

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