第3章 屈辱
涙が、辻本雨妃の視界を完全に奪っていた。
「辻本雨妃。これで願いどおりだろ」
浅井景辰の嘲る声が落ちてくる。
「その株を手に入れたら、離婚は取り下げか?」
浅井新海も鼻で笑った。
「決まってるだろ。誰だって知ってる。こいつがこの家に嫁いだ目的なんてな。親父も節穴だ。こんな虚栄女に、そこまで肩入れしやがって」
辻本雨妃は震える指先で手紙を丁寧に折り、そっと封筒へ戻した。
そして顔を上げ、浅井景辰をまっすぐ見た。涙に滲んでいた瞳は、もう揺れていない。
「……いいえ。離婚します」
浅井景辰が一瞬、言葉を失う。明らかに想定外だったのだろう。
辻本雨妃は滝川先生へ向き直った。
「離婚届の準備をお願いします。浅井家の株もお金も、いりません」
「本気か?」
浅井新海の目がぎらりと光る。
「辻本雨妃!」
浅井景辰が乱暴に彼女の手首を掴んだ。
「何のつもりだ。どんな芝居だ?」
嫌悪と疑いの視線にさらされ、辻本雨妃はただ疲れ果てた。
彼女は手を引き抜き、声を落とす。
「浅井景辰……お爺さんの葬儀が終わったら、署名済みの離婚届を渡します」
三日後。浅井のお爺さんの葬儀が霊園で執り行われた。
辻本雨妃は黒い喪服で、人の列のいちばん後ろに静かに立っていた。
涙は出ない。ただ、棺が土へ還っていくのを見つめ、胸の中で小さく別れを告げるだけ。
葬儀が終わると、辻本雨妃は一通の書類を浅井景辰へ差し出した。
「離婚届、署名しました。株の譲渡書も入っています。お爺さんが私に遺したものは、全部、浅井家へお返しします」
淡々と、冷えきった声で続ける。
「今日で、私たちは清算です」
浅井景辰は書類を見つめたまま、手を伸ばそうとしない。
「辻本雨妃。これで俺が見直すとでも? 気を引くための演技なら見飽きた」
辻本雨妃は笑った。酸っぱさと、解放が混じった笑み。
「好きに思えばいい」
彼女は書類を脇のテーブルに置き、背を向けた。
黒いセダンがゆっくり寄ってくる。ドアを開けた辻本雨妃は、最後に一度だけ振り返った。
浅井景辰はその場に立ち尽くし、離婚届を握りしめたまま、顔色を暗くしている。
日野遥が彼のそばへ寄り、何かを囁いていた。
けれど辻本雨妃は、もうどうでもよかった。視線を引き、車へ乗り込む。
霊園を出てから数日、辻本雨妃は浅井家の別邸に残り、静かに荷物をまとめた。持ち物は多くない。スーツケースひとつで足りた。
片づけが終わりかけた頃、携帯が鳴る。浅井景辰の秘書・林田唯からだった。
辻本雨妃は迷い、数秒して通話を取った。
「奥さま、今お時間よろしいでしょうか。社長のほうで少し……トラブルがありまして。来ていただけませんか」
林田唯の声は切迫していた。
「どうしたの」
辻本雨妃は眉を寄せる。
「お電話では……。住所を送りますので、急いでお願いします」
通話を切ると、画面に届いたのはホテル名と部屋番号だった。指先がひやりと冷える。
理性は告げる。行くべきじゃない。
もう離婚する。彼の問題は彼のものだ。
それでも、お爺さんの顔が脳裏をよぎり、見捨てきれなかった。
悩んだ末、辻本雨妃は上着と車の鍵を掴んで家を出た。
指定された五つ星ホテルの前に着いた瞬間、嫌な予感が当たる。入口には記者が群がり、警備員が制止しても騒ぎは収まらない。
「本当に浅井景辰か? 浮気確定?」
「そうだよ! 日野家の令嬢と時間差で入って、何時間も出てない!」
耳に刺さる会話に、辻本雨妃の足が止まった。顔色がじわじわと失われる。
――いわゆる“トラブル”は、浅井景辰と日野遥の密会がバレて、ホテルで囲まれていること。
胸が鈍器で殴られたように痛み、次の瞬間には麻痺した冷たさだけが残った。
踵を返して帰ろうとした、その時。携帯がまた震える。林田唯だ。
「奥さま、着きましたか? ホテル西側の搬入口に人を待たせています。そこから入って、最上階へ……」
辻本雨妃は数秒沈黙し、言われたとおり西側へ回った。従業員通路から中へ入り、最上階へ。
部屋の前に立った瞬間、リビング中央の絨毯に黒いレースの下着が落ちているのが目に入る。誰のものか考えるまでもない。
甘ったるい香水の残り香と、どこか生々しい気配が鼻をついた。
浅井景辰は窓際に背を向けて立っていた。白いバスローブ一枚。帯はゆるく結ばれ、髪は濡れている。シャワーを浴びたばかりなのだろう。
物音に気づき、浅井景辰がゆっくり振り向いた。疲れたような顔で。
「日野遥は?」
辻本雨妃は室内を見回す。だが姿はない。
「先に帰した」
浅井景辰は平然と言った。
「じゃあ私は何を見に来たの? これを?」
辻本雨妃は口元だけで笑う。冷えた笑い。
浅井景辰は眉をひそめた。
「下の記者を捌く必要がある」
窓の外を指し、続ける。
「このあと一緒に出て、ホテルにいたのはお前だと言え」
辻本雨妃は愕然と彼を見た。瞳の奥に悲しみが溢れる。
「……何を言ってるの。浅井景辰、そこまで私を侮辱するの?」
「辻本雨妃」
浅井景辰は苛立たしげに声を落とした。
「大人になれ。遥ちゃんは表に出る人間だ。帰国したばかりで、こういう醜聞は致命的なんだ」
――結局、すべては愛人のため。
彼女が傷つかないように、自分が汚名をかぶれと言う。
「彼女が困るなら、私は?」
辻本雨妃の涙がついに溢れた。
「私は、利用されて当然なの?」
五年分の屈辱と痛みが堰を切り、声が震える。
だが浅井景辰は冷ややかに見下ろすだけだった。
「お前が何だって? 遥ちゃんと比べる価値があると思ってるのか」
辻本雨妃は息を呑み、反射的に手を上げた。
しかし浅井景辰は手首を強く掴み、陰った目で睨む。
「俺を殴る気か?」
力任せに振り払われ、辻本雨妃はよろめいて玄関のキャビネットにぶつかった。鈍い痛みが走り、涙が滲む。
浅井景辰が一歩詰め寄る。大きな影が彼女を覆った。
「頼んでやってるんだ。光栄に思え。ここで喚くな、みっともない。あばずれみたいに騒ぐな!」
手首はひりつき、胸はもっと痛い。
――彼にとって自分は、日野遥の髪一本にも及ばない。
「……もういい。喧嘩はしたくない」
浅井景辰は眉間を揉み、疲れた声で言った。
「今回、火消しが終わったら離婚届にサインしてやる」
