第4章 約束を破った理由

その言葉を聞いた瞬間、辻本雨妃はわずかに目を見開いた。

離婚を決めたはずなのに、胸の奥はまだ鈍く疼く。

ひとつ深く息を吸い、視線を伏せる。声は、淀んだ水面みたいに静かだった。

「……分かった。手伝う」

これで最後。もう、本当に。

浅井景辰はわずかに眉を上げた。あまりにもあっさり頷いた彼女が、意外だったのだろう。

だが彼は、これも手のうちだと決めつけていた。何が何でも自分に嫁ごうとした女が、本気で離婚を受け入れるはずがない――そう思っている。

辻本雨妃はこの部屋を出ようと身を翻した。だが一歩踏み出した瞬間、腰に腕が回る。次の瞬間には、浅井景辰の腕の中へ閉じ込められていた。

身体がびくりと強張る。反射的にもがき、声を上げた。

「何するの!」

「動くな」

浅井景辰は彼女の顎を指先でつまみ、横を向かせる。低く沈んだ声だった。

「芝居は最後までやれ」

吐息がじわじわと近づいてくる。辻本雨妃は力いっぱい身をよじり、怒気をにじませた。

「浅井景辰、いい加減にしろ!」

「いい加減?」

浅井景辰はくすりと笑った。そこにあるのは、嘲りだけ。

「辻本雨妃、もう演技はよせ。お前、ずっと欲しがってたじゃないか。記者対策じゃなきゃ、誰がわざわざ触るか」

その一言で、辻本雨妃の顔からさっと血の気が引いた。

手放すと決めたからといって、痛みまで消えるわけじゃない。

首筋に熱い息がかかり、声が震える。

「……何をするつもり……」

浅井景辰は答えない。二秒後、彼は彼女の白い首筋に強く吸いついた。

「浅井景辰……っ」

「動くな」

返ってきた声はひどく冷たかった。感情のひとかけらもない。

「これがあれば、あいつらも信じる」

辻本雨妃は目を赤くしたまま、その場に立ち尽くした。下唇をきつく噛みしめ、握った拳が震える。

やがて浅井景辰が腕を離す。

彼は首元に残った『証拠』を見て、満足げに目を細めた。

辻本雨妃は数歩よろけるように下がり、壁に背を預ける。顔色はひどく悪い。

日野遥のためなら、この男は本当に何だってする。

けれど浅井景辰は彼女を気にも留めず、その場でくるりと背を向けた。そうして、目の前で浴衣をするりとほどく。

引き締まった背中があらわになり、辻本雨妃は息を呑んだ。瞳がかすかに揺れ、慌てて顔を背ける。

浅井景辰は整った顔立ちをしている。身体つきだって、目を奪われるほど美しい。

それでも五年の結婚で、彼女が手にできなかったものがある。

心だけは、最後までこちらを向かなかった。

しばらくして着替えを終えた浅井景辰が歩み寄ってくる。何でもないことのように、温かい手がまた彼女の腰を抱いた。

辻本雨妃は反射的に身を引こうとした。だがすぐに、さらに強い力で引き寄せられる。抵抗しても無駄だと悟り、唇を噛んで動きを止めた。

エレベーターの扉が開いた瞬間、フラッシュが容赦なく目を焼いた。

「浅井社長だ!」

記者たちがどっと押し寄せる。

「浅井社長、今日は日野遥さんとホテルに入られたんですか?」

浅井景辰は顔色ひとつ変えなかった。ただ口元にうっすら笑みを浮かべ、うつむく辻本雨妃を胸元へ引き寄せる。

そこでようやく、周囲も気づいた。

彼が抱いているのは日野遥ではない。戸籍上、正真正銘の浅井夫人だと。

「浅井奥さま……?」

「じゃあホテルにいたのは、奥さまのほうだったんですか?」

浅井景辰は辻本雨妃を見下ろし、優しく微笑んでみせた。

「雨妃は俺の妻だ。妻と来ないで、誰と来る?」

言いながら、耳元の後れ毛をそっと払う。ひどく親密な仕草だった。

辻本雨妃は彼を見上げる。胸の奥は苦いのに、それでも口元には作りものの笑みを浮かべた。

「ですが、浅井社長が日野遥さんと一緒にホテルへ入ったという目撃情報が――」

浅井景辰は答えない。ただ視線だけを辻本雨妃へ落とした。

言え。

その無言の圧は、あまりにも露骨だった。

情なんて、どこにもない。

彼にとって自分は、ただの道具。

辻本雨妃は深く息を吸い、貼りつけた笑顔のまま記者たちを見た。

「景辰と日野さんは、ただのお友達です」

声は静かだった。静かすぎるほどに。

「それに私たち夫婦の関係は……ずっと良好です。不確かな報道や中傷が続くようであれば、法的措置も検討させていただきます」

ほんのわずか顎を上げただけで、首筋の赤い痕があらわになる。

次の瞬間、フラッシュがまた狂ったように明滅した。

胸がきしむ。けれど辻本雨妃は何も言わず、浅井景辰の腕に寄り添うふりをした。

車へ乗り込み、ドアが閉まる。

ようやく、世界が静けさを取り戻した。

辻本雨妃は長く息を吐き、わざと身体を横へずらした。浅井景辰との距離を、できるだけ空けるために。

浅井景辰はちらりと見ただけで、何も言わない。

沈黙を破ったのは、辻本雨妃のほうだった。

「……離婚届、もう署名したの?」

だが浅井景辰は答えない。スマホを取り出し、何事もない顔で画面を見始める。

辻本雨妃がふと視線を落とすと、日野遥のアイコンが目に入った。さっき送ったばかりの文面まで見えてしまう。

『心配するな。お前には何の影響も出させない。俺が守る』

辻本雨妃は、思わず小さく笑ってしまった。

その笑い声に、浅井景辰がようやく顔を上げる。

だが彼女はもう、冷えきった目で窓の外を見ていた。

「浅井社長」

辻本雨妃は淡々と言う。

「明日、9時。市役所で離婚の手続きをお願いします。遅れないでください」

返ってきたのは、浅井景辰の冷笑だった。

「どうした。芝居が板についてきたか? 辻本雨妃、いい加減にしろ」

辻本雨妃は眉を寄せ、彼を振り向く。

「言ったのはあなたでしょう。この件を片づけたら、離婚するって」

車内に、重い沈黙が落ちた。

ややあって、浅井景辰が冷ややかに吐き捨てる。

「芝居もやりすぎると、白けるぞ」

その言葉に、辻本雨妃の胸へ荒れ果てた風景が広がった。

ここまできても、彼は信じない。

自分が本気で離婚したいことも、もう彼を自由にしてやりたいと願っていることも。

辻本雨妃はうつむき、それ以上は何も言わなかった。

今さら何を言っても無駄だ。

どうせ彼は、何ひとつ信じない。

そんな彼女の沈黙が、なぜか浅井景辰をひどく苛立たせた。

その時だった。

浅井景辰のチャットに音声メッセージが届き、指が触れた拍子にそのまま再生される。

「景辰、会いたい」

静まり返った車内に、甘えた女の声がやけにくっきり響いた。

次の瞬間、浅井景辰が吐き捨てるように言う。

「分かった。明日9時、市役所だな!」

そう言うや、彼は助手席の男に路肩へ寄せるよう命じた。

「降りろ」

見渡す先は、人気もない殺風景な道路だった。

辻本雨妃は呆然と彼を見つめる。

「芝居が好きなんだろ」

浅井景辰の声は氷みたいに冷たい。

「降りて、好きなだけ続けろ」

辻本雨妃は拳を握りしめた。目の奥がじんと熱くなる。

それでも最後にはバッグを掴み、黙って車を降りた。

ドアが閉まった途端、車は猛スピードで走り去る。

五年の結婚。

人前では理想の夫婦を演じておきながら、裏では妻を道端に捨て、別の女のもとへ急ぐ。

――もういい。

明日で全部、終わる。

けれど翌日、辻本雨妃は市役所の前で一日待っても、浅井景辰を見ることはなかった。

電話をかけても繋がらない。

気づけば、着信拒否されていた。

林田唯にも連絡したが、相手は歯切れが悪い。何かを隠しているのが見え見えで、ただ「浅井社長はお忙しくて」と濁すばかりだった。

辻本雨妃は疲れきった身体で家へ戻り、スマホを開く。

すると、また浅井景辰の名前がトレンドに上がっていた。

【浅井グループ社長、日野家令嬢に1億円超の誕生日プレゼント】

その文字を見た瞬間、胸の中で何かが静かに崩れ落ちた。

――そういうことか。

浅井景辰が来なかったのは、日野遥のため。

離婚したくないからではない。

一瞬でも期待した自分が、どうしようもなく滑稽だった。

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