第1章
交通事故が起きた、その瞬間――水宮雪音の頭は真っ白になった。
二台の車が激しく衝突し、フロントはぐにゃりと潰れて、彼女の身体を運転席に容赦なく挟み込む。エアバッグが間一髪で開かなければ、今ごろ彼女はこの事故で死んでいたはずだ。
胸より下のあらゆる場所が、鋭い痛みを訴えてくる。さらに致命的なのは、どこかでガソリンが漏れている匂いがしたことだった。
今日は玉突き事故。
ここから逃げ出せなければ、衝撃で死なずとも――爆発に巻き込まれて死ぬ。
それでも雪音は、腹をかばうようにそっと手を当て、震える指でスマホを取り出す。最後の力を振り絞って、江原翼に電話をかけた。
これが、最後になるかもしれない。
かわいそうに――この子は、まだこの世界を一度も見ていないのに。
コール音は鳴り続け、いつまでも繋がらない。機械的な女性のアナウンスが繰り返されるたび、心がじわじわ冷えていく。
……死ぬって時にさえ。
翼は、私の電話に出ないの?
私の訃報を見たら、きっと喜ぶんだろう。
だって、笹谷幽々子と結婚できる。
絶望も、苦さも、痛みも、いっぺんに押し寄せる。するとそのとき、下腹部に突き刺さるような激痛が走り――何かが、ゆっくり流れ出ていく感覚がした。
「……っ」
雪音は青ざめて、必死に腹を押さえた。
その瞬間。
窓の外を、江原翼の影が横切った。
助けてくれる――そう思ったのに。
彼は雪音の車には立ち止まらず、前方の車へと駆けていく。
雪音はぼんやりとした視界で見つめた。翼はスーツ姿のまま、肘で前車のガラスを叩き割り、ドアをこじ開け、中の女をそっと抱きかかえて引き出した。
――笹谷幽々子。
それ以外、あり得ない。
声を出したくても出せない。痛みで景色がぐるぐる回り、意識が遠のく。ぼやける視界の端で、誰かがこちらの窓を必死に叩き、雪音を引きずり出したように見えた。
そして外へ逃げた直後――車が爆発した。
轟音。熱。炎。
事故現場は一瞬で火の海となり、水宮雪音の世界は完全な闇へ沈んだ。
――
目を覚ましたとき、そこは病院だった。
雪音は重い頭を持ち上げ、白く冷たい天井を見つめ、点滴の針が刺さった手の甲を見下ろす。
事故直前の記憶が、遅れて脳裏に蘇った。
……私、生きてる。
助けてくれたのは――たしか、村坂博だった。
病室のテレビでは臨時インタビューが流れている。
あのとき車内から見た光景、そのままだった。
江原翼は迷いなく笹谷幽々子を救いに行き、スーツ姿で両手を血に染めていた。救い出したあと、彼の顔には安堵と――大切な宝物をやっと見つけたような慎重さが浮かんでいる。
数分の映像。
なのに一秒一秒が、見えない刃となって雪音の心を切り刻んだ。
私は……彼の妻なのに。
翼は、最初から私なんてどうでもよかった。
そんな現実を、テレビが容赦なく突きつけてくる。
……これで終わり、と思った。だが画面が切り替わり、江原翼の単独インタビューが映った。
スーツには埃がつき、だが彼は気にも留めない。高精細の映像の中でも、その顔立ちは相変わらず整っていた。
「慈善団体に1億寄付します。貧困地域の子どもたちに教育の機会を。――ただ、幽々子が無事で健康でいてくれれば、それでいい」
その動画は瞬く間にトレンド入りした。
雪音は呆然と眺めた。
脳裏に浮かぶのは、自分に向けられていたあの冷たい目、苛立ち、うんざりした表情。
かつて彼のために跳ねていた心臓が、この瞬間、完全に止まった気がした。
雪音はゆっくり目を閉じる。
一筋の涙が頬を伝った。
……笑える。
私は事故で生死の境をさまよっていたのに、夫は別の女を救って、善行まで積み上げている。
ドラマでもこんな露骨な絵面は作れない。
それが現実で――しかも、自分の身に起きた。
目を開いたとき、雪音は決めていた。
馴染みの弁護士に電話をかける。
「今すぐ離婚協議書を起草してください。至急で。財産分与は一切不要。私が身ひとつで出ます」
弁護士が来るのは早かった。
雪音はペンを握り、ゆっくり、けれど迷いなく自分の名前を書いた。
これで、江原翼とは――もう何もない。
署名したその瞬間、下腹部にさらに歪むような激痛が走った。
雪音は再び意識を失った。
医師が駆け込んできて叫ぶ。
「手術室を! 大出血です、早産になる可能性が高い!」
――
その頃。
江原翼は別の病室の窓辺に立ち、険しい顔をしていた。
発信履歴を見下ろす。
かけてもかけても、繋がらなかった電話。
眉間に浅い皺が刻まれる。
水宮雪音が、彼の電話に出ないことなんて今まで一度もなかった。
背後で笹谷幽々子がゆっくり目を覚まし、かすれた声で呼ぶ。
「翼……」
江原翼ははっとして振り返る。
「起きたか。どうだ、どこか痛むか?」
幽々子は泣きそうな顔で言った。
「全身が痛い……」
江原翼はスマホを手に病室を出る。
「医者を呼ぶ」
廊下に出ると、助理が待っていた。
江原翼の声には、本人すら気づかない焦りが混じっている。
「まだ水宮雪音は見つからないのか?」
助理は怯えたように答えた。
「江原様……奥様は本日の玉突き事故に巻き込まれている可能性が高いです」
皺がさらに深くなる。
今日の事故が、どれほど惨烈な被害を出したか――彼は知っている。
雪音が……?
江原翼が動こうとした、そのとき。病室の中から幽々子の苦しそうな声が飛ぶ。
「翼、手が……すごく痛い。入って、そばにいて……」
江原翼は足を止め、振り返らずに命じた。
「今すぐ水宮雪音を探せ。何があっても――腹の子だけは絶対に無事でいろ」
助理は即座に頷く。
「承知しました」
江原翼の胸に、不穏なざわめきが広がる。
だが、その正体を掘り下げる前に――怒りをまとった影が突進してきた。
「江原翼! お前、人間かよ! 雪音に何をしてきた!」
村坂博が歯を食いしばり、拳を振り抜く。
江原翼は身をかわし、二発目を片手で受け止めた。冷たい目に苛立ちが混ざる。
「……何の真似だ」
江原翼は乱暴に手を振り払い、吐き捨てる。
「水宮雪音はどこだ」
村坂博は二歩退き、言い放った。
「お前に聞く資格はない。雪音が受けた傷を、彼女は一生許さない」
村坂博は胸元から書類を取り出し、江原翼に叩きつけた。
「今すぐサインしろ」
江原翼はしゃがんで拾い上げる。
そこに大きく書かれていた文字――離婚協議書。
顔色が一気に変わった。
最下段には、水宮雪音の整った筆跡がある。
江原翼は怒りを抑えて低く言った。
「これはどこからだ。水宮雪音を呼べ。今すぐ会わせろ。でないと――」
村坂博が笑った。
その笑い声には、悲しみが滲み、背筋が凍るほどだった。
「雪音は、もうお前の前に現れない。死んだ。あの事故でな」
江原翼の身体が硬直する。
「……何だと」
村坂博は冷たく嗤う。
「協議書の血、見えるか? 雪音が死ぬ間際、最後の息で書いたんだ。三人分の命だ。江原翼、お前は何で償う?」
江原翼はその場に釘付けになり、信じられないという顔をする。
「……嘘だろ」
「サインしろ。お前は雪音と何の関係も持つ資格がない」
江原翼は床に落ちた書類を、震える手で拾い上げた。
白い紙に、黒い文字。にじむ鮮血。
水宮雪音が死んだ。
彼らの子どもも――。
村坂博は江原翼の崩れた表情など見もせず、大股で去っていった。
