第2章
時は瞬く間に流れ、五年後――。
最高峰の医学アワード、その授賞式会場。
客席に並ぶのは各界のトップばかりで、見渡す限りスーツにドレス。宝石と香水のきらめきが、空気ごと揺れていた。
その極上の華やぎの中。
目立たない隅に立つ、ラフな装いの女がひどく目を引いた。
淡い色味のカジュアル。柔らかな長い髪を低い位置でひとつに結び、顔には大きめのマスク。
周囲に呑まれることもなく、ただ静かに、そこにいる。
VIP席の江原翼は、ずっとその女を目で追っていた。
場違いなほど淡い気配。なのに、確かにこの空間の中に存在している。
そして何より――マスク越しなのに、どうしようもなく覚えがある。
まるで、水宮雪音が帰ってきたみたいだった。
……あり得ない。
水宮雪音は死んだはずだ。
あのとき彼は、必死に確かめに走った。手にしたのは、水宮雪音の遺灰だけだった。
その瞬間も、ステージの進行は止まらない。
「続きまして――若くして医学界に多大な功績を残し、希少疾患に特化した新薬を開発。無数の家族を救った、アヤメ医師をお迎えします!」
スポットライトが、あの女を射抜いた。
女は淡々と壇上へ上がり、トロフィーを受け取る。
温かな声が、マイク越しに会場へ響いた。
「このような栄誉をいただき、心より感謝いたします。初心を忘れず、これからも一人でも多くの患者さんを救っていきます」
割れる拍手。ざわめき。
「最近、海外で爆発的に話題のアヤメ医師って、あの人? なんでマスク外さないんだろ」
「本人のルールらしいよ。手術枠、毎月争奪戦だって」
「死亡率100%の症例を、彼女が執刀して生還させたって……致死率を99%まで落としたとか」
「若いのに、化け物だな……将来が怖い」
江原翼は、複雑な顔でその声を聞いていた。
――お祖母さんが、もう長くない。
この手術は、アヤメでなければ望みがない。
授賞が終わり、女――水宮雪音は客席へ軽く会釈してから、背を向けた。
この五年、彼女が手にしたトロフィーは数え切れない。
最悪の結婚と、底なしの絶望みたいな恋から抜け出して。まるで生まれ変わったかのように、人生を取り戻した。
水宮雪音はそのまま休憩室へ向かった。
ドアを開けた瞬間、ふたつの柔らかな塊が胸に飛び込んでくる。
「ママ! お兄ちゃんと一緒にテレビで見たよ! 表彰されてた!」
「ママすごい! ボクとお兄ちゃんのアイドル!」
雪音はトロフィーを脇へ置き、片腕で一人ずつ抱き上げてソファに座った。
子どもは本当に成長が早い。鍛えていなければ、もう抱き上げられなかっただろう。
あの日――村坂博が、爆発の一分前に彼女を車から引きずり出してくれた。
その事故のせいで、双子は妊娠六か月で早産を余儀なくされた。
仕事以外の時間は、すべて子どもに注いだ。
ようやく、ここまで元気に育ってくれたのだ。
母親にしか分からない、道のりの痛さがある。
穹が気遣うように言う。
「ママ、今日の手術……疲れた? ボクとお兄ちゃんで肩たたきしようか?」
雪音が答える前に、悠人が続けた。
「ママ。今日さ、ステージにいたとき――あの男、見た?」
雪音は眉を寄せた。
「……あの男?」
悠人はぷりっと頬を膨らませ、怒りを隠さず言う。
「昔ママをいじめた悪い男! ボクも穹も知ってる。ママを傷つけた、悪いやつ!」
雪音の胸がひくりと跳ねた。
……江原翼のこと?
でも、子どもたちには何も話していないはず。
まさか――。
雪音は無意識に掌を強く握りしめた。
悠人はソファから飛び降り、小さな脚でとてとてと進むと、リモコンを掴んだ。授賞シーンを巻き戻す。
カメラは客席も流していて――悠人がぴたりと止めた画面は、ちょうど江原翼の顔だった。
「ママ、ほら。こいつ」
胸の奥に残っていた、最後の僅かな希望が、すうっと霧散した。
「ママ、ボクとお兄ちゃんで仕返ししてあげようか?」
穹も同じように怒って言う。
「ママは世界で一番いい人だもん。ボクとお兄ちゃんが守る!」
雪音は、二人の――江原翼に似た眉と目を見つめ、唇を引き結んだまま問いかけた。
「誰かに何か言われたの? 変なこと、考えないで。あなたたちのお父さんは……もう死んだの。今ごろ天国から見てる」
幼いころ、父のことを追いかけて聞かれたとき。
雪音はそう答え続けてきた。何年も信じてくれていたはずなのに。
悠人と穹は顔を見合わせ、やれやれとため息まじりに言った。
「ママ、もう三歳じゃないよ」
雪音は言葉を失った。
そこへ、助理がノックして顔を出す。
「アヤメ姐、院長が呼んでます。来てください」
「分かった」
雪音は返事をし、子どもたちへ視線を落とす。
「二人とも、ここでいい子にして待ってて。ママ、用事が終わったらすぐ戻る。勝手にどこか行かないで」
ソファの悠人と穹は、同時ににやりと笑った。
「ボク、計画がある!」
「ボク、計画がある!」
声までそろう。
「今すぐ実行!」
小さな足でこそこそと抜け出し、二人はVIP休憩室へ向かって走り出した。
