第3章

妹の穹は少し緊張した様子で左右をきょろきょろ見回し、好奇心まじりにたずねた。

「お兄ちゃん……ここ、本当にあの悪い人の控室なの? 間違ってない?」

悠人は胸を張る。

「絶対に間違ってないよ。先に調べたんだ。この控室は、あの悪い男専用だって」

そう言いながら、机の上に立てられたプレートを指さした。

VIP貴賓 江原翼

悠人は前もって用意していたサインペンを取り出し、勢いよく書き殴る。

「大悪党! ママをいじめたやつは、代償を払え!」

書き終えると、裏にでっかい亀まで描いてみせた。

穹が不思議そうに首をかしげる。

「でも、お兄ちゃん。私たちって、その大悪党の子どもじゃないの? 悪い人が亀なら、私たちって……子亀?」

悠人はその言葉にむせて、げほげほと咳き込んだ。

「ぼ、ぼくたちはママの子ども! いい子! 悪い亀は、あいつが勝手にやればいいんだ!」

穹は真剣な顔でうなずく。

「うん。たしかに……私たち、子亀じゃないもんね」

穹は悠人からペンを受け取り、プレートの裏に自分も亀を描き足した。

二人は目を合わせ、こらえきれないようにくすくす笑った。

――

同じ頃、別の控室。

水宮雪音はノックしてから入室し、ソファに座る中年の男へ淡々と言った。

「院長、お呼びですか」

院長は顔いっぱいに笑みを貼りつける。

「アヤメ、来たか。山原奥様の容体が悪くてな。江原奥さんが、君に執刀してほしいそうだ。条件は好きに言っていい。いくらでも出す」

その言葉で、水宮雪音は隣に座っている笹谷幽々子の存在に気づいた。

宝石をこれでもかと身にまとい、上から下まで値踏みするような視線。目の奥には、抑えた嘲りと軽蔑がちらついている。

――これがアヤメ?

若いだけで、話題づくりで持ち上げられてる医者じゃない。しかもマスク。顔も出せないなんて。

水宮雪音は袖の中で手をきゅっと握りしめた。脳裏に、五年前の光景が蘇る。江原翼が迷いなく彼女を見捨て、笹谷幽々子を救いに走った瞬間。腹に子がいて、命が三つあっても――笹谷幽々子には勝てなかった。

死亡記録を偽造して姿を消したあと、江原翼は案の定、息つく間もなく彼女を妻に迎えた。

江原奥さん――皮肉にもほどがある。

時間は万能じゃない。

傷はふさがっても、痕は残る。少し触れただけで、今でも胸の奥がえぐられる。

笹谷幽々子は高慢にカルテを差し出した。

「あなたがアヤメ? 思ったより若いのね。これが山原奥様の病歴。うまくやってくれたら、手術費とは別にチップも出すわ」

水宮雪音は静かな目で見返し、受け取らない。

「私、引き受けるなんて言いました?」

笹谷幽々子の言い方は、使用人を叱りつけるみたいに当然だった。

水宮雪音は身元を隠して生きてきた。もう二度と、あの家と関わりたくない。まして江原家の手術など、受けるはずがない。金をいくら積まれようと同じだ。

笹谷幽々子は目を見開き、苛立ちまじりにカルテを机へ投げ捨てた。

「私が頼んであげてるのよ。山原奥様がどんなお方か分かってる? それに、私が誰だか――分かってる?」

「たかが医者のくせに! こっちは一流の名門よ!」

水宮雪音は院長へ視線を向ける。

「院長、用事がありますので失礼します」

院長の顔色が青くなる。水宮雪音は大金を払って海外から引き抜いた切り札だ。ここ最近も賞を立て続けに獲っている、病院の看板。だが笹谷幽々子は江原翼の妻で、敵に回すわけにもいかない。

水宮雪音が出ようとすると、笹谷幽々子が素早く回り込み、行く手を塞いだ。

「清高ぶらないで。結局、値段が気に入らないだけでしょ。言いなさい。いくらが欲しいの」

「医者なんて他にもいくらでもいるのよ。山原奥様があなたを指名したから話してあげてるだけ。私が一言言えば、あなたなんて簡単に潰せるんだから」

水宮雪音の目に、冷たい嘲りが浮かぶ。

「医学界まで江原家の縄張りなんですか。言ったことを現実にできるなら脅しでしょうね。でも、できないなら――ただの笑い話です」

商売の世界なら、江原翼の一言で終わるだろう。

だが自分の世界は医療だ。積み上げた人脈も実績もある。

「……っ!」

笹谷幽々子は歯ぎしりし、マスクがよほど目障りなのか吐き捨てる。

「金でメディアを動かして持ち上げてもらってるだけでしょ。なのに顔も出せない。やましいことでもあるの?」

そう言って手を伸ばし、水宮雪音のマスクを剥ぎ取ろうとした。

水宮雪音はその手首を掴み、氷のような声で言う。

「何をするつもりですか」

力を込めると、笹谷幽々子は痛みに顔を歪め、悲鳴を上げた。

恥と怒りで表情を醜く歪ませ、吐き出す。

「私に手を上げるなんて……! 放さないなら、あなたをこの世から消す!」

「いいですよ。できるものなら、やってみてください」

水宮雪音は苛立たしげに手を振り払い、笹谷幽々子の歪んだ顔を見て内心で冷笑した。

表では清純。裏では噛みつく狂犬。

それを見抜けないのは、江原翼だけだ。

立ち去ろうとした瞬間、笹谷幽々子がなおも食い下がるように飛びかかり、水宮雪音の手首のブレスレットに引っかかった。

ぷつり。

細い黒紐が切れ、珊瑚の珠がぱらぱらと床へ散る。

水宮雪音の瞳に、怒りが走る。

――母が遺した、たったひとつの形見。

言葉を発しかけた、そのとき。

ドアの外から、凍りつくような声が落ちた。

「……何をしている」

水宮雪音は反射的に顔を上げる。

そこには、江原翼の冷えた瞳があった。

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